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沈黙の恩寵。

この前、近所のショッピングモールを歩いていた時、中年の女性と──おそらく彼女の息子と思われる少年が手をつないで、椅子に座っているのを目にした。

母親は視覚障害を患っているのだろう──杖が傍らにあった。

少しの間、足を止めて、ふたりの様子を眺めていた。

その親子は何も話さず、ただただ黙って、手を握り合っていた。

やがて、彼らの前を通り過ぎることになるのだけれど、僕はいつまでもその親子の様子を眺めることが出来る気がした。

その絵画的な風景は僕の心を内側の深いところに吸い込んでゆくようだった。

ふたりの間には沈黙の交流が行われていたのだ。

その騒々しい商業施設にあって、遠目から見ても、彼らは異質だった。ふたりの空間にだけ──ある種のヴェールが包まれているようだった。

そのヴェールをあえて言葉で表すのであれば、愛、純粋さ、献身──そう言ったもので表現されるべきだった。

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その親子は僕に「沈黙の恩寵」について書くことの霊感インスピレーションを与えてくれた。

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将来のことが不安で、カウンセリングを受けていた時期に僕は偶然、信頼できるカウンセラーの方に出会った。

瞑想家でもあるそのカウンセラーの方が僕の質問に対して沈黙している間、僕は「早く何か言ってくれないかな」と焦る気持ちがあった。

法外な値段ではもちろんなかったけれど、そのカウンセリング料金は僕にとって決して安いものではなかったからだ。

彼が僕に言ってくれた言葉を僕はほとんど思い出すことができない。

カウンセリングが終わった後、エゴは落ち込んでいた。「何も得られなかったなぁ」と。

セッションが終わった後、その方から瞑想会に参加することを勧められた。

それから、僕は約二ヶ月間、ほぼ毎日、その方と瞑想をした。もちろん、瞑想会なので、何も話さない。挨拶をする程度だ。

でも、ある日を境にして、「あれ、何だか大丈夫かもしれない」と感じるようになった。

状況は何も変わっていないのに、内側で深いくつろぎが起こったのだ。

今では、変容は言葉ではなく、沈黙によって起こるのだ、という確信がある。

それはエゴには分からない。

カウンセリングや相談をする時、エゴは「〇〇について〇〇な答えが欲しい!」と思う。

でも、沈黙はエゴが期待している答えのはるか奥深いところで変容を起こすことができるのだ。

沈黙は内側に恩寵という「種」をまくのだ、と思う。

その種はすぐに開花するかもしれないし、何か月も先のことかもしれない。

そして、それはカウンセラーや導師グルを必要としないこともある。ただひとりで沈黙している時でも、変容は起こる。

恩寵と言うのは目に見える状況の変化だけではなく、内側の深いくつろぎ━━「ああ、自分は大丈夫なんだな」というハートの平穏が起こることなのだ。

外に向いている心が内面に向くと言うことだ。



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