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どうして作りたいと思ったのか⑥ 知ることについてと、旅のテーマ

識ることは、心の中に山や海を取り込むことなのだろう

「知る」ということについて、福岡で活動を初めて2年半ほどずっと考えてきた。料理教室をする時も、料理を提供する時も、スリランカやインドの料理の違いを話しする時も、「知る」ということがどこか自分のテーマとしてある気がしている。

「知る」の先の、成果に意味を見たいのかもしれない。何かとすぐに意味を付けようとする悪い癖だとか思いながら、また考えている。
自分の活動は「伝える」という要素を前に押し出したものだ、と自分では認識している。伝えるということは、知ることに繋がる。あるいは何か行動するきっかけを生む、と信じている。
だけど、その先は、、、?

ぼくはよく悩む傾向にある。
後輩にも「また悩んでるんですか」と半ば諦めを含んだようによく言われる。
理想を描いているのに考えすぎて行動に移せず、変わらない環境に飽きてしまって、最後は「好きだから、したいから」という理由に帰結して行動する、というのが自分のパターンだ。
成果や結果を気にしだすと、ぼくは途端に行動ができなくなる。

「知る」ということにどれほどの価値があるのか?
「伝える」という考えを含んだ、今の自分の活動に意味はあるのか?
活動をしていて、時に「不安」が頭をもたげ、足を止める言い訳を作る。

フィジー留学で語学は堪能になったのかと言われると「話すことへの抵抗感が和らいだ」ぐらいのものだった。
「留学に行けば英語が上達する」という、抽象的な甘い受動的な期待は、語学学校外で日本人と日本語で話す時間を多く取ったし、授業中は失敗を恐れるという心持ちを生んだ、そう思う。それはそれでとても大事だった。
でも、ぼくにとってこの留学で得た大事なことは「フィジーで同じ時間の中で、確かに人が同じ様に悩みや喜びを持って生きている」という実感、その人の広がりがぼくの知らない土地で確かにあるのだろうという予感をさせたことだった。
大事なものは、事前に期待していた成果ではなかった。

photo: 海辺の見送り, Lou, Manus, PNG, 2016

「知る」ということにどれほどの価値があるのか?

2015年、協力隊赴任中の合間、インドネシアバリ島で、1717mのバトゥール山に登った。
観光地でよくある、ご来光を山の上から見るというもので、日の出前の薄霧がかかった山頂は南国ではあるけれど、ダウンジャケットを着ないと寒いほどで、様々な土地から集まってきた外国人、ガイドの現地人がたむろして、温かい飲み物を飲んだり、話をしたり、静かに座っていたり、と思い思いに皆、太陽を待っていた。
風の音、聞き取れない言語が様々と小声で聞こえる中、空が白んでくる。
思い思いだった人々は、ひまわりの様に一斉に同じ方向を向いて、感嘆の声を上げたり、何かを念じるかのように目を閉じていたりと、太陽を眺めた。
濃紺の宇宙から、隣の島ロンボク島の3000m級のリンジャニ山の特徴的なシルエットが浮かび上がり、島を隔てる海、バトゥール山の足元には大昔の噴火で形成されたカルデラ湖が見えてきて、一切が色づいていき、目の前に広がった世界は地球を感じさせた。それは、心がじんわり温まるように美しかった。
心中は分からない。でも、皆同じものを見て、心が動いたのは確かだと思う。

「識る」ということは、他と違うということを区別することを含むと思う。
言いようもないその感覚に名前を付けることでもあり、名前や言葉によって、見えていなかった山や海を、同じ様に眺めることができるようになるのだろう。いや、本当は言葉もいらないのかもしれない。
他の人と心が重なる瞬間、共感という言葉よりも強く、無性に嬉しく染み渡るように感動する。

「知ること」に対して、
答えは星の数ほどある。
それが全て、そうだと、言いたい。
ぼくはもっとその深さを、世界のカタチを知りたい。

photo: バトゥール山頂からの朝焼け, Bali, Indonesia, 2015

未来と今を結びつけたかった

フィジーから帰国後、3週間後ほどに、東南アジア、ネパール、インドに向け、出発することにした。
大阪から上海のフェリーに乗る海路での出国で、陸路で南下しながら答案ジアの縦断し、マレーシアのクアラルンプールまで。そこから飛行機でネパールのカトマンズに飛び、南下してインドにイン。どこかの都市から飛行機で帰って来ようという合計3ヶ月程度、約9カ国の自由度の高い旅程だ。

旅中にどのような状況に陥るのか想像し、調べ、最悪のケースをできる限り想定し、対策を練った。フィジー留学とはことなり、大移動だし、日々を安心できる家族と過ごすわけではない、むしろお金もないので、安宿ばかりを巡る予定で無法者と空間を共有することも予想できた。
極力考えてそれらに対策を練った。

生水を飲むとお腹を壊す、ジュースに入っている氷には気をつけろ。クレジットカードをスキミングされる心配もあるぞ。歩いていたら後ろからナイフでバッグを割かれて財布を取られた。ボッタクリばかりなので、メーター付きのタクシーに必ず乗るように。

調べれば調べるほど、日本では目立って気をつける点ではないことばかり。
心配は募るがどうしても行きたい。心のどこかに、貯金も尽きかけていることもあり「行かない=就職活動を再開する」という道がちらつく。
それでも行きたかった。
ちなみに、これらの心配事は全て杞憂に終わる。
いや、インドでは生水でとんでもなくお腹を壊したけど。とんでもなく。

この旅には自分なりの2つのテーマがあった。
1つ目は、青年海外協力隊へのイメージを膨らませること
2つ目は、死を体感すること

協力隊を意識するようになったのは、ボランティア精神に溢れていたからではない。先輩がカンボジアに赴任する予定だったこともあり身近だった。それに、フィジーのカフェで他の日本人から聞いたのは、JICAの仕事でフィジーに来て、目を輝かせながら働いている女性の話だった。
これだ!と思った。少し先の進路も考えていく時期で、とにかくやりがいを求めていて、「正しいこと」をしたいと痛烈に想った。
東南アジア前に色々と本を読み漁り「世界と恋するおしごと」という本に出会う。国際協力への道について、その実情をインタビュー形式も書かれている読みやすい本で、どのルートも求められる経験が厳しく高い。その中で唯一、協力隊という枠だけが自分が狙える穴、「世界」への道が開かれる道筋のように思えて、その道に全身を傾けようと前のめりになった。

東南アジア後は、協力隊になりたいと強く願って、その先の未来も想像した。何か困っている人がいるのであれば、と。
彼らを困っている人たちのカテゴリーにどこか入れていた。

ぼくは手に職がなく、競争率が高めの職種に応募することになるだろうと調べて予想を付け、合格率を上げるためという不純な理由と、実際の活動を単純に見てみたいという大きくは2つのモチベーションで、JICA関西に協力隊員の活動を見させて欲しいとガチガチに緊張しながら連絡をした。
今まで個人でそのような例はないと言われたけど、趣旨を説明するとネパール事務所に繋げて下さった。すぐに現地のボランティア調整員の方からフレンドリーな雰囲気のメールが届き、ネパール事務所訪問の日程を決めた。

もう一つの旅のテーマは「死」を身近に感じることだった。
今に生きたいけど、決断ができない。全力で生きたいだけなのに。
自分ではこうしたい、と描こうとしているのにブレーキをかけてしまう。まだまだ準備が整っていないんじゃないの?お金のこと考えられてる?メリットは?
想像ができないことに対して、具体的にならなければ行動まで移せない。
怖いから。
では、どこまで具体的になれば良い?メリットがあるから行うの?
いや、違うはずだ。そんな卑小な心で自分が活きるはずがない。
そんな想いがごちゃごちゃと混線して、今が見えなくなっていたのが会社員時代だった。

インドでは川辺で火葬して、それを間近で観ることができるとどこかで聞いいた。その光景を自分の「死」と重ね合わせることができるのではないか。
生きながら死んでいるように感じた虚しい日々を終わらせたい。
小中高校、大学の終わりを経験してもう時間が戻らないことを悟り、営業マンでこのまま自分自身を生きずに死ぬ姿を垣間見て、恐ろしかった。
生の終わりだと思われる明確な「死」で、今を自分の中にはっきりと入れたかった。大学の時のように損得などない、全力で、純粋に燃えて死にたいと願った。

念の為に登録していた転職斡旋会社リクルートの担当者に、アジアへ旅に出る旨を伝えた。
「時間を空けると転職は不利になりますよ」と半ば脅しの返答。
「何しに行くんですか?」
「インドで死を感じに」
返事に困った担当者の方は、別れ際に、
「自分も行きたかったな、、、」と言っていた。

photo: ケラニヤペラヘラでの祈り, Kelaniya temple, Sri Lanka, 2018

cover photo: 本屋、Washington,D.C. , USA, 2018

ではまた!

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