ロールズの正義論について

一番説得力を感ずる正義論とその理由について
一 「善」「美」といった個人的主観的な価値と違って、世の中の人々全体に向けられた規範という性質を持っている「正義」について、個人や私的団体の間を律する規範として考えるか、国家や公的制度が備えるべき性質として考えるかという問題がある。
 コロナ禍における経済的格差の拡大を指摘するまでもなく、自由な競争社会では教育、能力、環境、貧富の差などさまざまな格差が生じうるのは仕方がないといえよう。ただ、自由競争社会だからと言ってそのまま格差を放置したままでよいわけでもない。どのような格差であれば、人々は許容しうるのだろうか。その問いに歴史上はじめて明確に答えたのがロールズではないかと考えた。
二 ロールズの正義論は、個人の人格を尊重した社会正義の原理である。その内容は、「無知のヴェール」に覆われた仮説的な「原初状態」にある理性的な人々が採用するであろう社会制度の原理として、①各人は平等な基本的諸自由への最大限の権利を持ち(第一の原理)、②社会的、経済的不平等は、格差原理と機会の公平な平等(機会均等原理)という二つの制約の下でのみ許されるとする(第二の原理)。
 ここでいう格差原理とは、成功者は社会的に最も恵まれない者の生活を改善する限りにおいて、格差は容認されるとするものである。これは、それまでベンサムが掲げた「最大多数の最大幸福」に代表される功利主義が持つ不公正な分配の可能性を否定し、「公正としての正義」を実現しようとする点で画期的だといえる。
 現代社会は、特に経済面において格差の拡大が究極まで広がりつつあり、富める者はますます富み、感染症の蔓延や災害により貧しい者はますます貧しくなっている。アメリカでは、所得分布で上位1%にあたる人々が、全体の60%を占める中間層を上回る富を保有していることが、連邦準備制度理事会(FRB)の最新データで明らかとなっている。そのような、社会情勢の中で、国家が富める者からの徴税を強化し、貧しい者たちへの社会福祉の義務を負い、格差を是正し自由で公正な競争が行われるようにすることで、社会全体の幸福を増大させることができると考えるならば、ロールズの正義論はその理論的根拠を提供するものだと考えた。
三 もっとも、ロールズの正義論に対しては、「原初状態の人々が選びそうな分配の基準は、効用の平均値の最大化、つまり平均的功利主義だろう」などという批判や「原初状態で選ばれる原理を、現実の人々が採用することがなぜなぜ合理的なのか疑問に残る」という批判、また「人格の別個性を尊重していない」という批判がある(森村進. 法哲学講義 (筑摩選書) (pp.228-229). 筑摩書房)
 しかし、結果的に「効用の平均値の最大化」となったとしても、社会的に恵まれない者を救済することになる点には意義を認めることができるし、さまざまな価値観を有する人々に合致するような統一的な原理を提供することはそもそも困難であり、かえって非現実的なのではないかと思われる。
 また、個人主義的な正義論を批判して、コミュニティの意義を強調する立場から、正義は共同体において何が善とされるかによって決まるとする主張もある。
 しかし、総じてコミュニタリアリズムは、リベラリズムやリバタリアニズムと違って、強制力の行使を正当化する範囲を限定しようという、立憲主義的発想を持たず、特定の人生観や幸福観を特定の社会の中で押し付ける恐れがある(森村進 法哲学講義 (筑摩選書) (p.241). 筑摩書房)という批判には説得力がある。
四 思うに、ロールズの正義論は、自由の原理のもとで、機会均等原理と格差原理の二つが適用され、人々は平等な出発点から自由に幸福を追求しつつ、しかも国家が最大限の社会福祉で人々の選択を保護しようとすれば、その結果、人々は協同して豊かな社会を実現できるのではないかと考えているように評価する。最大多数の最大幸福を実現しようとした自由経済社会が、実は格差を拡大しつづけ、その是正に困難を感じているとすれば、その障害を解消するための理論的根拠はロールズの正義論に求められるのではないかと思うのである。
                                           

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