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エクリチュール 無限性と永遠性から

・意味を生成することは必ずしも言語からのみではない。なぜなら、言語から意味を生成しているつもりでも、それが、ただのコピーであり、原コピー的ではない、あの0を指し示すばかりのひとつの指標に過ぎないことは言うに及ばず、多々、存在してきた歴史の瓦礫だからだ


月と聖別

・だか、さらに尚持って言えることは、そのような意味の在不在を問うことがすでに、人間政治学的な無意識的闘争の地平において、許されざることであることもまた言うに及ばない(意味的スケープゴートの脅威)

・つまり、意味とはあるにしてないし、ないにしてある、という動静のなかで、あるにしてあるところのあるなのである(ヤスパースの超包者は、すべてを意味化しうる暗号地平を書き示している。枢軸時代は別に、過ぎ去らない)

・そこには、時間と空間と、さらに、ここで重視したいのは、時代、である。なんらかの暗号から合図へ、実存から外存へ、ということが、すでに発生していることを私は見つめている(奴隷的意志を省いた共感というものである)

直進遠近法

・ポストポストモダン(次の近現代)は、ポストモダンと根本を別にしないということからして、そのべき乗的な造語性の不可能から、オルターモダン(別の近現代)が指示される

・なぜなら、そもそも歴史というものが、ある一時において仮説された、近現代的なもの(モダニティ)であるからに他ならない。中世において、中世というようにその時代を呼んだり認識した者がいないように

・さて、少なくとも歴史は座礁され、根本から朽ち折れ、"別"の、軸を見出されない限り、原進展的な事態性のなかに移行することはない

・つまり、転調、という概念のない循環コードが、延々と、まさにニーチェの述べた永劫回帰を、あのペシミズムとニヒリズムの狭間のタナトスへの急落を、隠蔽しながらも、あらゆる権力構造の維持と引き換えに表層による深層の脱領土化が為されるばかりなのである


素描 タナトスとエロース

・意味から実感への移行は容易ではなく、そこには、意味、ではなく、"意自体"の動態が関与する

・意がなんらかの反射のうえに、客観的なもの、になり得たときに、意味、になる、ということが、つまり、シニフィエとシニフィアンという情物一致以前の、識字可能性、文脈可能性、ということを造語的、造文脈的な、その皮膜から、指し示す

・意自体の動態とは、神聖なるもの、であり、出エジプトをモーセに成し遂げさせた、あの神聖なる動態と一致するのである(これは有神論、無神論の射程ではなく、歴史、ということについてのあの転調を成し遂げさせるメタ的な視座についての言及である)


パースペクティブユニバーサル

・日本語をリバースエンジニアリング(オルターバウハウス的)することで、はじめて、日本において、哲学、が可能になるのである。あの数多、哲学学のあらゆる往来が無に帰る一点があり、その一点に、あるところのある、ないところのない、が判別された神聖動態(エヒィエ・アシェル・エヒィエ的)が、文字通り動態して、聖なるものの空虚に、たとえば、意味とか実感を流入させて、共感に移行させるのである

・ある文脈性(スケール)において、そのなかの造語性(コード)が、確かに、スケール内部に位置しないコード(つまり、非コード)であったときに、その文脈性が移行していることを、つまり、転調、が為されていることは、どのように説明され、どのように認知が生成されるのであろうか

・この音楽にみられる転調という概念をあらゆる系に適応させたものを、原転調的なもの、としたときに、たとえば、歴史上でも、そういった規定的でないものが忌避されるにもかかわらず、それが登場したときに、単純な不協和音として排除されるか、得てして、原転調的なもの、ではない、という不可能的な和音矯正が行使されるかのいずれかのなかで、のたうち、を遂行してきたのが、歴史外存在なのである

・この歴史外存在は、いたるところに生息の域を生やしながら、それ自体がひとつのラディカントな根として、安易にプロテスト運動の一環として社会認知を施され、去勢されてしまう

・重要であるのは、必然以外には、なんら必然は存在しない、ということである


形式的聖性

・相対主義的な相対主義としての、虚有、が跋扈しながら、あらゆるものを物象化しながら、ないことをあるとして、あることをない、とする、虚構以前性の現実、を、蔓延させた(この事態はいつから進展してきたことなのかは、現生人類からは及びもつかない)

・近現代にそれがひとつの失敗であり、虚構であるという言説が意味を持たないのは、その言説がマイノリティという既成概念のなかに閉じられ、ひとつの正義の形として、形式的な終了をもたらされるからである

・このことへの対抗なき対抗を成し遂げた稀有な例としては、マハトマ・ガンディーを解釈学的に、理解することに等しい(いずれにせよインドが独立したにせよ、なぜ、そこにマハトマ・ガンディーという聖性が付与されることが可能であったのか、という問題外的命題が、やはり存立されている)

・マハトマ・ガンディーは明らかに不要であったのである。どのようにしてもマハトマ・ガンディーは歴史的になんらの効果をも及ぼしていないし、ヒトラーはあらゆる効果をもたらしている。なぜなら、インドの独立は歴史的な当然の帰結であったし(ガンディーが存在しなくとも独立したであろうし)、ヒトラーがいなければ、ドイツのあの暴虐は起こり得なかったということのコントラストは、ガンディーが不要かつ、しかしながら、付け足されたもの、であることが言いうるのである。それ自体が独立した根であり、あのことは歴史外のものが、歴史に付着した、非英雄型の、まだ明確にわかっていない謎の物語型なのである

・善性とは、そのようなものであり、なんら歴史の帰結に因果関係を有していないにもかかわらず、和音のルート(根音)だけをトランスするオンコード的存在なのである。歴史は悪に過ぎないが、善は一切の関与なしに関与する根のようなものなのである

・つまり、ガンディー(善性)は、歴史に、付け足された、まさに付着物に過ぎず、歴史(悪性)の運行に一切かかわりを持たない。にもかかわらず、すべてが、ガンディー(善性)のもとに、根音を同定させ、ひとつの英雄に偽装をされるのである。そして、この偽装は善なのである

・ラディカント的な根、オルターモダン的な根、とは、それ自体、構造物やその領域の帰結性になんら関与していないにもかかわらず、それ自体がその前後左右の根本原因であるように生成されるところのものなのである(上下性による)


直進遠近法による上下性についてのドローイング

・人間には動機の調達が必要であり、その実感が人を動かすことを可能にする。言語より現実といわれる動態のほうが、より、動機的であり、調達可能性を高く維持しているのである

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