日記 不眠からはじまること

・不眠からはじまること

・小学生5年の頃に、睡眠を切り裂き、唐突に人生はじめての、幻覚、を見た。自然教室の日の夜に、人影が壁を登っていった(不気味なもの)

・小学生6年の頃に、また、睡眠を切り裂き、幻覚を見た。当時、アメリカで流行していた、宇宙人にさらわれるという、あの類の、幻覚、だった(そして、また、不気味なもの)

・いずれの時においても、幻覚が、覚めると、すぐに、「これが幻覚か」と理性が勝り、それらを現実であると信じることはなかった

・だが、幻覚、があること自体についてが、不気味なもの、としてたち現れた

・さて、しかしながら、すでに、小学生4年の頃に、祖母が倒れて、フロリーングが一面、頭部から漏れ出した血液で、真っ赤になっている光景を見た。咄嗟に、救急車を呼んで、事なきを得た

・だが……事なきを得たのだろうか……。その後、祖母は、また、倒れたりした。脳内の血管が定期的に破れるようになり、しばらくもしないうちに、入院生活になり、歩けなくなっていき、施設暮らしになり、わたしのよく知らないうちに、やはり、最後も脳内の血管が敗れて、病室で、死を迎えた

・中学生の二年の頃に、葬儀場で、高温に熱せられた祖母の白骨を見た。白骨、というのは、若干程度、嘘だ。その頭部の骨の一部は、紫色に変色していた(なぜだかはわからない)

・鮮明に覚えている。リアクションがわからず(だろうか)、葬儀の際に、泣いたのは、自分だけだった(なぜだかはわからない)

・不眠は大学の頃には、一ヶ月殆ど眠れない日々が続くといったように、当たり前になっていた。眠っても、眠った感じがしない

・さて、言うまでもなく、死、についてである。幻覚や不眠は、おそらく、たぶん、まずもって、祖母という人間の、死、を、見た、のではなく、目撃、した、つまり、発見した、からである

・死は発見するまで、人が白骨に至ること、は、死、ではないだろう(一般的なそのことは、おそらく、死亡、のことであり、死、とは何かしら異なるものに思う)

・死を発見した

・そして、未だに、発見し続けている(それは癒えない病である。つまり、生のことである)。それは不眠をわたしに架している 

・わたしは珍しくも、生、を発見し続けている人間である

・眠れない夜は、そのように訪れはじめる

・言うまでもないが、哲学者レヴィナスは、この、眠れない夜、のことを、イリヤ、と呼んだ

・イリヤとは、このわたしが眠れないのではなく、夜の側が眠れない、という事態を指し示す

・主語を失ってもなお、そこにある存在のこと。わたしには、イリヤとは、他者の極みのことであり、死した他者性のことである。死亡した他者性ではなく、他者の死性のことである

・祖母は、どこに行ったのか。まさか、白骨それそのもの自体になったわけではあるまい

・意味は、わかるだろうか? 祖母は祖母である。"白骨"ではない。あれは、"祖母の白骨"、であるが、祖母自体、ではない、ということ(この微妙なスリットが見えるだろうか)

・子供じみた死の否定、ではない。死を肯定するためにこそ、祖母は、あの白骨ではない、ということまでを発見したのである

・死を否認しているのではない。あれは、死、である。だが、その死を"肯定"するためには、少なくとも、あの、白骨、は、祖母自体、ではない、ということを見つめなければならない

・わたしにとっては、祖母は行方不明なのである。なぜなら、わたしが死ぬとき、わたしは行方不明になる、としか言いえないからである

・わたしは葬儀で焼かれて、白骨になるだろうが、わたしは"白骨という体験"はできない

・わたしは、わたしをこそ、不気味なもの、の最高峰のものに思う

・なぜなら、何処に行くのか、知らないからだ。死を以てしてどこに行くのか。意識が途絶して、眠るときのように、気絶。で、終わり、だろうか

・十中八九そうだろう。だが、そうであるからこそ、では、この生、とは何か、何なのか、ということが、徹底的に、解体、されざるを得ないのである

・生が、ある強度を以てして、意味化されること。つまり、ひとつのイデオロギーにまで強化される以前に、わたし、は解体されるようになった(気絶して終わり、寝れば終わり、なら、それまでの意識や覚醒時の過程は、というか、"こそ"、フィクション、にならざるを得ない。一旦、言えるのは、これは、レトリックでも冗談でもない、からこれほどに人間は動物ではない、のである)

・さて。これが、イデオロギーである。人間ということ。極限のイデオロギー

・わたしはすでに、バラバラ死体である。無限の解体の最中である。それが、かろうじて、わたし、と呼びうる、他者性としての、たしかに、わたし、である

・ただ、困難であるのは、十中一ニで、そうではない(気絶は死ではない)という、言説どころか、神秘、まで、存在するから、困難なのである

・少なくとも、神学者マルティン・ブーバーなどが指し示すことが、冗談やレトリックには、到底思えない

・告白するのであれば、心理学者カール・グスタフ・ユングのいう偶然の一致のほうが、因果律より尚更に優勢な生を営んでいるのが、わたし、であるし、修道女アビラのテレサのようなエクスタシスによく至る(エクスタシスとは性的な俗語としてのエクスタシーではなく、元来、法悦を意味する)

・まあ、このあたりが、芸術と哲学における言説性の限界である(ヤスパース的なところに着座することが限界だろう、と)

・これが、わたしの今の孤独であり、イリヤであり、不眠である

・さて、わたしは少なくとも、小学生の頃に、有していた幻覚と現実の皮膜を保つ、理性、を捨てたのだろうか

・理性は理性によって、死んで行くのである。つまり、理性はこのように生き"られて"いるのである。そうである。わたしはたしかに、死、に向かっている。

・死を肯定するために

・わたしには他者の死など実は、わからない(白状)

・わたしが死ぬまで、他者の死、など、わからない(白状)

・わたしの不眠の理由は、〈なにもかもが全くわからない〉からである


■ーーおまけーー■

・さて、これは、ここからは、夢の話である。つまり、わたしは他者を肯定したことが、おそらく、ない。たしかに、暫定的に肯定する限りである

・どのように、未死者、つまり、生存者を、明日も違うことを言い始める他者を、肯定すればよいのか、わからない(そもそも他者を肯定するとは? わたしもまたひとつの他者であるのに)

・他者、とは、そういうものだろう、ということ

・殆ど、レヴィナスと同じ話になった

・生がそうであるように、というか相即相入的に、死が万が一、そうであった場合に、わたしは、天秤のいずれかに傾き、片方が常に破れるばかりの、人間、というものを、死、を迎えることで、はじめて、全面的に肯定しうるのかもしれない

・この、全面的な肯定とは、死=生、に到達する、一"点"において、最高潮に至り、完全なる肯定において、人生を歴史の一部として、生まれくる他者に、分け与えるのだろう

・あれ? これ、ただのレヴィナスの解説ではないだらうか

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