アートエクリチュール 意味から実感 実存から外存 実感から共感
あらゆるものが意味化されているということは、言語化され、コード化されているということに他ならない
共通の認識が行われること自体が、ひとつの手続きになり、それより大きい系が見えなくなるということが、現代ということになる
言語こそが、見えなさというマスクなのである
言語や意味それそのものが、無明、という仏教の立場を取るには、私はアーティストであり、私という個体の視座から、無明、という言葉を別の意味、言葉で、現さなければならない(社会や個人ということ)
「実感」、こそが、喪失されているものの正体であると考えている
この「実感」は、feel、realize、experienceのいずにも該当しない、または、それらの部分語をゲシュタルトして浮かび上がるなんらかの実感である
言葉や意味や、社会的、時流的な記号化やコード化のその全景における循環は、現実、というものを生成するひとつの魔術でもある(現実という魔術)
で、あるときに、普遍的に人間に座してきたものは、やはり「実感」なのである。この「実感」は定量化できない類のものであり、同じ赤いリンゴを見ても、暖かく鮮烈に赤が見える人もいれば、そもそも「リンゴ」としてしか処理できない人もいる
意味の先にあるのは、実感、である
意味や言語は、それそのものが人間の規格化であり、そこから逃れるためには、そして、ペシミズムとニヒリズムを超えるためには、或いはその根底にあるタナトスを超克するためには、実感の復興こそが必要なのである
実存として、言いうることとは、ニヒリズムもペシミズムも、それらの絶望と失望のさらに分裂の狭間には、タナトス、があるということである。つまり、容易な解決は実は不可能なのである。これは、社会制度的な解決は、補助や手助けにしかならず、人間は、根源的に、死の欲動を抱いているということである(喜んで死ぬことが可能な存在)。タナトスはエロースよりより強い
実存者は限界状況で、タナトスと対峙する。この戦いにおいて、生の欲動などべつに対峙させる必要はない。タナトスと戦っているその最中においても、生きている、ということを発見するだけでよいのである(それが再帰的なタナトスへの常勝を意味する)
さて、実存者とは外存者であることが理解される。実存者とは、洗礼(バプテスマ)を受けて、内的世界から外的世界に到達した者のその履歴的、経過的、経路的な、実在を言うのである
実存者は意味に生きるが、外存者とは実感に生きる(隣人のなかに自らの実存を見出す者のことである)
それはいつも奇跡であり、歴史的にあたらしい共同体を生成するし、その共同体のなかから歴史的にあたらしい天性、個性、独自性、神聖さなどが誕生する
実感こそが、なんらかの生命であり、実存者が外存者になることで、ある意味では、ヤスパース的な超包括者自体に、その側になる、ということをさえ意味する(テオーシス)
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