沈黙についてのエクリチュール

・言語は沈黙の痕跡である

・言い方を変えれば、言語とか意味とか、シニフィエとシニフィアンとかいう系自体が、沈黙、の下位カテゴリや、それ自体の痕跡、比喩、に過ぎない

・最終的に言いうるのは、現実、とは、沈黙(死)の痕跡、に過ぎない、ということ(だろう)

・第二枢軸時代としての、沈黙。瞑想(解脱)と祈り(救済)、というようにすでに、位置づけられてきた、神聖なるもの、に、語り(沈黙)、を位置づけたいと考えている(私は)

・たとえば、死者は、言語を持たない。だが、死後に死者の沈黙は、言語より、よりなにかを物語る

・言語にも、数学的0、が存在し、それが、沈黙、である

・死者の言語としての、沈黙。また、あらゆる言葉が、他の言葉に巻き取られ、相対化することに対して、沈黙それ自体は、言葉自体に巻き取られることはない(言語ゲーム外言語としての沈黙)

・ときに、語るよりも、沈黙、を突き通すほうが、より、なにかを語りうる

・無視、のことではない。沈黙とは、語りながらも、沈黙した自分ー他者(非自分ー非他者)系を保つ、つまり、自分にも他者とも互いに語りながらも、沈黙に同時にあり続けている状態を意味する

・あたらしい言語や意味としての、沈黙

・こう考えたときに、死者、とは、自分とか言語、という意味系での語りを終えて、沈黙、という語りに入った者たちということもできる

・たとえば、シモーヌ・ヴェイユが、あらゆる仕事を成し遂げたあと(重力と恩寵などを書ききったが)、そのまま生存していたとしても、著作に説得力が欠けたともいいうるのである。存命中に、あのエクリチュールが提出されたときに、ヴェイユの言語としての語りは終えられ、沈黙という永遠に入っていなければ、響かなかったろう、とも言いうる

・オルターモダン思想では、翻訳、をあたらしい言語として位置づけている傾向を読み取るが、私は、沈黙こそあたらしい言語自体、意味自体だと洞察し、考察する


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