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【NOVEL】ある男の人生 第3話

 後日、男は友人のもとへ車をとばした。道中、彼は友人の言った台詞を思い出しながら、自分らしくある友人のその後に期待が高揚するのだった。
 陽が沈みかけた頃、彼は適当な道の駅に車を停め一休みをした。硝子張りの喫煙所で一服をしていると、一人の男に出くわした。胡麻塩頭で顔の小じわが目立つ中年男だった。ジッポーに燃料が無いからか、ホイールをいくら回しても着火出来ずにいた。
「貸しますか」男はライターを差し出すと、その中年男はにっこり笑ってこう言った。
「ありがとう、君は好青年だね」
 男は黙って腰掛にもたれ掛かると、その見知らぬ男も腰を掛けた。「一人で旅行かい」中年男は訊ねる。
「いえ、友人に会いに行きます」と男。
「そうか、君は友達思いだね」
 対して、男は「そうでもありません」と言って、自分のこれまでの生活と今後の決心とを逐一彼に物語った。下手な知人よりも、見知らぬ人への自己開示が容易なのは、金輪際会うことが無いので、却って明け透けになった。
 中年男は、それに応えるようにじっと注意深く傾聴し、共感的な理解を努めるようにした。だが、男が語り終えると、中年男は吸殻を捨て、彼の眼を見てこう言った。
「青年、その友人のもとへ行く必要は無い。お前さんは、勤め人としてごくごく一般的な迷いに陥っているのだ。むしろ、その歳で生き方について考えているのだから立派なものだ。お前さんは、若く、金もあり、眉目秀麗だ。きっと、奥さんも美人で、娘さんも二人に似て可愛いのだろう。
 よいか、はっきり言うが、人生において、それ以外に何が必要なのだ。概して、人間というのは、無いものねだりの生き物だが、お前さんの場合は至極贅沢なものだ。そうした生活すら出来ていない人間が、世の中にどれだけいると思っている。孤独な中、自分の生き方も知らずに労働にかまける人間がどれだけいると思っている。お前さんの主張だと、もしその友人が、今現在幸福に暮らしているならば、仕事をほどほどにして、家庭を二の次にし、自分探しに出るみたいな言い草じゃないか。
 よいか、青年、まぁ聞きなさい。
 自分らしく生きるなどと言って、世間を渡り歩いている奴の周囲を見てみなさい。自分の好きな事、得意な事、出来そうな事しかやらないのは簡単だが、それらが皆同じ発想になってみなさい。隣の大国のように収拾がつかなくなってしまう。
 なぜかと言うと、嫌な仕事というものは、勤め人であれば皆同一で嫌なのだ。労働において下手物食いはいないのだよ。
 仕事というものは、そういった欲求を超えたところ…自己からの脱却、他者貢献、時には滅私奉公な部分で現代社会は成り立っているのだ。頭の良いお前さんなら、入社当時そうした気持ちで働いていたはずだ。おそらく、日頃雑事が多過ぎて忘れているだけだろう。
 私が思うに、遠路はるばるやって来たお前さんに君の友人はこう言うだろう。『自分は幸せである』と。そりゃそうだ、非正規労働者という者は、直接的な仕事には成り得ない。仕事での苦労を味わうことが出来ないのだ。裏を返せば、自身が幸せであるという事を大見得切って言える奴の方が、生活面では却って怪しい。向上したくてもしようとしない自分に、心の中は常に空虚になってしまう。それでも、現状維持の生活は成り立ってしまい、歳は確実に取る。
 二十歳そこそこであればまだ可愛げもあるが、三十を超えてしまっては、たとえ男と雖も周囲は流石に気を使うに決まっている。要するに、自分らしくあればあるほど孤独の度合いは増すばかりなのだ。
 それだから、お前さんが思っているほど三十代の意思決定は簡単ではない。簡単ではないが、至って単純。
 その決断力を察するに、お前さんの体内には情熱が煮えたぎっている。今それを労働に注がずして何になる。今のお前さんは、悩み悶えたりすることのない、静かな波止場を探し求めているアオサギのようだ。呑気な鳥には、そういった避難所があるのかもしれないが、われら雄の人間には決して許されない。たとえそれが、静謐な片田舎であっても、お前さんのような働き盛りは、何処へ行ってもお前さん自身が財産になる。働かずに歳を取ってしまえば、散財してしまったことをいたく後悔するに違いない。
 お前さんの情熱は、誤った方向へお前さんを誘っている。しかし、ひとたび方向を誤った後でも、今なら改めることは出来る。いや、改めるというより、一刻も早くもとの生活に戻り、見返りを求めず目の前のことに従事すれば、道は開く。
 これからは、もう少し聞き分けの良いサラリーマンになれば良いじゃないか。夜な夜な放蕩していた自分を悔いるなら、酒量を落とせば良いじゃないか。家族に嫌われても、親父としての役割を果たしていれば、大したものだよ」
 中年男の主張は至極真っ当であり、勤め人であれば誰もが知っていた。現代社会における暗黙的真理でもある。彼の談義に男はひどく打たれた。己の不平に圧しひしがれてよくもそんな気違いじみた決心をしたものだと、むしろ不思議に思われた。
「いわゆる、環境を変えるのではなく、私自身の変化によってこの苦境から脱却出来ると、そういうことですね」
「お前さんが自分の本性を認めない限り、無いものねだりは続くよ」中年男は語を継いだ。
「人知の及ぶ限り、あんたの進路は、家に帰った方が良いに決まっている。だが、この教訓を善用出来るなら友人のもとへ向かっても良い。ただし、その友人を説得することはもう止めなさい。その友人とこれからも友達でいたいのであれば、それ以上踏み込む必要は無いのだから。
 もし、その男がお前さんのように現状に悩んでいるなら、相談に乗ってあげなさい。そして彼を社会の歯車として引き入れると良い。一人前の男の力を具備しながら、それを持て余していることが、不幸な生き方であると促してやれば良い。『もはや、青春時代は通過しており、我々は第二の時期に突入しているのだ』と言ってやりなさい。モラトリアムの悦楽を捨て、結婚相手でも紹介すれば、孤独の境地に惹きつけられることは無いだろう。そうした生活に身を任せていけば、やがてその友人もお前さんと同質の悩みや不満を持つに違いない。尤も、その頃にはお前さんは一家の主人として敢然としているはずだがね」
 男は、この見知らぬ中年男に説伏した。彼は最後の数語を理解すると、中年男に礼を言って家路へと戻るのだった。

【NOVEL】ある男の人生 第4話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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