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【NOVEL】ある男の人生 第9話

 男が駅で待ち合わせしていると、小さな子供が駆け込んできて「おじさん」と言って身を寄せた。
「ふふ、君はすっかり僕の親戚だね」
 そう言って、友人夫婦は現れた。
 男は小さく息を吐いて、子供を抱きかかえて「光栄だよ」と言った。
 友と男の交流は、定期的なものだった。家族ぐるみの付き合い方は、その都度異なったが、近頃は昼時に合流し、少々上等な店で談話するくらいの余裕があった。
 席に着くと、男はまず子供に本を渡した。それは、かつて男が学生の頃に使用していた古典力学の梗概本である。手に取った子供は「重い…」と一言だけ発し、眼を輝かせていた。
 互いの間柄を誰かに聞かれると、照れくさくて『腐れ縁』とごまかしていた時もあった。彼らは注文を終えると、第一声を発したのは友人だった。
「本の虫だった自分を思い出すよ。僕らは、てっきり理系男子のインテリ気質で、女気も無いままと思っていたが、人生分からないものさ。今や、こうして結婚して子供もいるわけだからね」
「ふふ、だからって貴方のセンスで、あの子の本まで決められちゃうと私困るわ」
 友人夫婦は、どんな要領で子供を育て上げるのか、その点で共通認識を図ろうとしていた。冷静に暮らしていく男の様を彼らは参考にしたかったのである。
 二人の言葉に対し、男は「何しろ、君は頭が良いからね」と言い、展望が見え過ぎる性分を指摘してみせた。
 彼の妻は、子供が待ち受けているだろう困窮や心配を出来るだけ減らしていきたいと思っており、その思いは、どうやら彼女の方が強く、友人は少し辟易していた。だが、友人も同意せざるを得ない状況にいた。また、子供に対する教育方針にも微妙な違いがあり、家族を担う者にとって、ごく一般的な問題に二人は直面していた。
 それを他所に子供は本を濫読していた。
「子供の集中力は凄いな、羨ましいよ」男は感心して言った。
「あいつを見ていると、やはり自分の子供だなって思うよ。見ての通り、顔は妻に似ている。遺伝子の他に、僕らの思想や環境が、あいつの細部に宿ると思うと、僕は子供によって犠牲になる覚悟を決めなくていけない。一方で、以前のような生活を基、僕らは同一の条件で育て上げようと思っている。それでも、あいつには社会規範に従順した、協調性のある人間になってもらいたのさ」
 友人の言葉に男は驚いた。世俗的な誘惑が多い昨今、友人の性格を察するに、子供にも自由意思を授けるものと思っていたからである。何しろ、我々は汚れた大人であり、その垢は容易に落ちるものではないからだ。しかし、子供は…確かに、躓くことが禍になることはないと我々は知っている。それでも、躓きを招来する必要はない。なぜなら、それらは、労働とともにやって来るから、それを無意図的に教え込むのは、教育上あまりにも無慈悲ではないのだろうか。実直な生活に、終始しなければならない肝要な理由を子供に伝えていた。
 一定の資産を持たずに生きてきた人間にとって、同じ道を我が子に歩んで欲しくなかったのである。友人は続けて言った。
「僕らは、大した資産を持てずにいる。それもそうさ、他人のために愛を持って仕事をしていなかったからさ。なぁ、友よ、人間のあらゆる基礎は、結局のところ、労働と愛なのかもしれない。僕自身の幸せは、もう考えてなくて、家族と共にこの二つだけを真実として、生きていこうと思っている。
 だからと言って、これまでの惰性で成り立っていた研究生活、生産性の無い怠惰な仕事振りが報われるわけではないが、人生に対する疑惑や行動の逡巡も、この二人に出会うための運命だとすれば、自分のこれまでの行いに片が付く気がしてね」
 男はそれを聞いたとき、学生だった友人の面影が重なった。友が、自己を豊かにしているのを目の当たりにして、男は安心したのだが、それが自然で永久な真実では無いことも知っており、彼にどう伝えるべきか迷っていた。
 加えて、もう一つのある保証…不明瞭ではあるが、我々の世代では理解の範疇を超えつつある、新時代の到来…その場を円滑にする社交性や専門的な技術訓練も必要としない、能力が乏しくても発想があれば、労働として保証されつつある時代に男は気付いてしまった。自分で自分の道を見つけるとか、他人を思いやるとか、進んで何か用事を済ませるといった、人として当たり前な教育に今後、意味があるのだろうかと疑念が膨らんでいる最中だったのだ。
 三人は、しばらく黙っていると、ようやく男が言葉を発した。
「そうだな、君の方が正しいのかもしれない。流石は元教師だ。君は、優秀な教育者だよ。何だか、私は感心してしまった。そうだな、子供には、まだまだ時間があるわけだし、かといって、本人にとっては短いものだから、一応盤石な世間体を叩き込むのが筋なのかもしれない。
 だが、あえて言うが、私もどちらかというと、そうした教育方針で二人の子供を育て上げた。教育の目的は自立であると。勉強の出来が多少悪くとも、世渡りを仕込んでおけば、大した問題にはならない。
 当時、私は二人の子供に十分な愛を注いだ。君が先ほど言った通り、愛することは、教育において重要であり、また、教育を継続するためには必要な努力でもある。だが、愛によって、私の思考力や判断力を大きく鈍らせていたことも事実である。他人の子供であれば、注意出来ることを自分の娘には許容している矛盾に、私は愛によって自己欺瞞していた節がある。
 正直、私はただ、自分の子供が喜ぶ姿を見たいだけだった。
 やがて、彼らが、社会や私に対して敵対心を抱くようになった時、私は私で、何か勝手な責任を負っていたね。期待に応えようと努力した末、辿り着いたのが今の境地。思えば、こうした話は家内にもしなかった。
 君の子供が一人前になって、もし、私の助言が必要となれば、私は君の相談役になるだろうし、逆に言えば、君の力も借りるかもしれない。なぜなら、子供たちが自活した暁に親の務めは終わり、晴れて私たちは自由になるのだ」
 男が、胸の内を語り終えると、友人も心の内と近々の課題について言い表すのだった。
「ふふ、君は常々心強い親友だよ。僕らも年齢のこともあり、子供には手厚い教育をしてみせる。妻には苦労を掛けたが、僕にとって今の環境全てが、適齢だと思っている。もし、若くして子供を持ってしまえば、自分の未成熟さを理由に、子供に八つ当たりしていた可能性があるからさ。昨今の非人道的な虐待問題は、親の未熟さにあるのさ。欲しいがままに子供を作ってしまえば、親は子に生まれてきた理由を説明出来ない。
 友よ、君は既に気付いていたかもしれないが、人類は、人が人たらしめる認知革命から始まり、人口の増加に伴い農業を覚え、やがて効率を重視し工業が発展した。僕らが生きている間に、利便性の追求、資本格差を助長するような科学革命が起こり、今や僕らの身の回りは飽和状態だ。これはつまり、物的財産は頭打ちになっていて、新たな事業へと移行しつつある。
 敢えて言おう。僕が今言ったことを抜きにしても、今現在、所有する喜びよりも、手放すことでの簡素な余裕を人類は求めると思うが、どうだろう。技術の進歩を目指すのではなく、生き方の大転換を図るのさ。本音を言えば、この歳になってまでこんなことを言いたくなかった。
 僕はね、友よ。昔、君に言われてはっとしたことがたくさんある。世俗的な教えではなく、社会人としての教えは、君という教師と僕という反面教師がいたからさ。おそらく、僕は、この子供に物的財産は何も残すことは出来ない。世間でいう高学歴貧困だろうか。でもそれは、強がりでも何でもない、貧困とは決して言わせない」
 友人の眼に覚悟の炎が付いた頃、注文していた肉料理が運ばれて来た。テーブルに鉄板が並ぶと、子供は浮かれ出し、妻は子供の本を預かった。

【NOVEL】ある男の人生 第10話(最終話)|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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