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海外生活8ヶ月。想像以上に英語が上達しない自分。

久しぶりにノートを書く。
どうやら、自分の中で「どうしても呟きたいんだ!!」って思える燃えるような昂りと、何となくの世の中のタイミングが一致しないとなかなか書き出せないみたいだ。定期的に書こうと試みたものの、文字が増えていかなかった。

でも、今回は芋づる式に感じたことが繋がってくるし、かなり頃合いだと思った。そんなに期待はしないでほしいが、共感してくれたら嬉しい。


「今の自分の英語力が、渡航前に想定していた『海外生活が半年以上経過した時の英語力』に全く到達できていません。」と、最近ある方にお話したところであった中で、

私が現在いるご近所の国のチームへ移籍したあの本田圭佑選手が最近Twitterにこう呟いていた。

このツイートに英語教師や、海外で生活してきた人たちが共感の声をあげている。

自分にとってタイムリーな言及に、テンションの昂りも相まって「いやまさに、お隣さんの本田選手!おっしゃる通りです」と大きく頷き、リツイートやいいねボタンを連打したいところであった。



私は特別、英語を苦手としていなかった。
大学受験を経験し、他の科目の中でも群を抜いて良い成績だったはずだ。
大学に入ってからも必修の英語科目があったが、比較的上位互換のクラスで授業を受けていた。

それなのに、こっちにきて全く聞き取れない、伝えられない。

来た当初よりは随分とマシになったものの、ただただ「外国人という自分」に慣れて、それなりに振る舞っているだけだし、お店でのやりとりやサッカーの試合中はほとんど決まり文句あるいは簡単な英単語2、3個並べれば済んでしまう。(それで済んでしまうと感じていることも論外だが)

ここにきてから、勉強をしてない訳ではなかった。動画や本を見て、書いて覚えたりして何かは身につけたはず。でも勉強しながら思ったことがあった。


「ネイティブの発音は聞き取りづらい。」

僕は無意識に聞き取りやすい英語を教材として選んでいた。
それが大きな間違いであると、気づいたのは本当に最近だ。
「聞き取りづらいネイティブの発音」が間違いなのではなく、

「日本人の僕たちが聞き取りやすい英語の発音」が間違いなのだ。

だって英語はネイティブの人たちの言葉なのだから。

「聞き取りづらい」と感じてしまうこと自体がそもそもナンセンスだと気づいて、僕は日本語で書かれた文法書とペンを置き、日本人によって(もしくは日本人にとって聞き取りやすく)発音された動画を見ることをやめた。


ただひたすらに、ネイティブの発音をこの腐った脳みそに響かせ続ける。
いろんなことを覚えようとするけど、次の日に忘れたっていいと割り切り、
音と繋がりを聞きまくって耳を鍛えて、この音と同じ音がまた次にリンクするのをひたすらに待つ。しばらくすると1日数個ずつだけど音がリンクしてきて、最近ではぼやっとだが聞き取れるようになってきた。

多分この勉強法が最適化どうかはわからないが手応えがあるし、意図がよりダイレクトに成果として向かっている気がする。


この一連の経験を経た時、日本の仕組みに感じたことがあった。
それは、

「日本中から日本製英発音を一切なくすことが必要」だと。

なんなら英語の先生を皆、ネイティブの人もしくはネイティブの発音を完璧に近い状態で発音できる人がなるべきだと。

これまでの教育が無駄だとは思わないし、ここでの生活下でその恩恵も確かにあった。

でも全くと言っていいほどリアルじゃない。

授業も、人生を賭けた節目のテストも。

一生懸命勉強し、こうだと思って準備していた「日本で学んだ音」が、リアルの環境下では気づかないうちに自分の耳元を通り過ぎていくのだから。


英語圏ではないラトビアの地でも、そんなことを思いながら私は自身に絶望している。
(きっとゴリゴリの英語圏に留学している人は尚更なのだろうか)

ラトビア人は、ラトビア語かロシア語を母国語として話している。(歴史的な背景から、地域によって日常会話がラトビア語主体の街もあればロシア語主体の街もあるらしい)
国の歴史が浅く、街並みなどのハード面も制度や経済といったソフト面?も日本よりはるかに遅れをとっており、まさに発展途上国だ。

しかし、そんなラトビアでは、特に若い年代の人たちはほとんどと言っていいほど十分に英語が話せる。僕のチームメイトは多くがまだ10代だが、ネイティブレベルに話せる選手が多くいて、少なくとも全員、僕の英語レベルよりも上回っていることは確かだ。

14歳のアカデミーのラトビア人が、カナダの大学に進学しネイティブ並みに英語を話せるブラジル人トライアウト選手と流暢に会話していたところを見た時は、流石にメンタルがボロボロになった。

確かに母国語の語源や文構造、発音の仕方、宗教などを含めた文化が日本と比べたら英語圏と似ていて定着しやすいということもあるだろう。
しかしながら、国力にもこれだけの差があって、教育だけを切り取っても十分な環境を提供できるはずなのに、英語力に関して、日本は少なくともラトビアに明らかな遅れをとっているのだ。(決して私がラトビア人を総合的に蔑んでいるのではないということはわかってほしい。)


「日本で生涯を過ごす」と言っても、様々な分野において海外との距離は着実に縮まっていることなんて、誰が見てもわかる。

「日本人だけでしゃべればいい」と屁理屈を言っても、日本の教育制度には英語がある。
この差を目の当たりにした僕が「せっかく勉強するんだったら」なんて悠長なことは誰に対しても言いたくないが、「せっかく勉強するんだったら」、リアルで闘えるものを備えるべきだと強く思う。

こんな壁もある。
ある帰国子女が完璧な発音をしたり、真剣にネイティブの発音を真似た時、

「イキってる」「カッコつけてる」

またはそれに似た言葉を浴びせたり、雰囲気を作り出す風潮。
実際私の学生生活でも経験があるし、むしろその雰囲気の中にいた人間だ。


これがどれだけ馬鹿馬鹿しく、妨げの何者でもないことは、
ここまでを読んで頂ければ理解していただけると思う。

「後悔」などしてる間もなく、僕は今、自身の現在に絶望している。


終わりに、
まだ英語力と言えるものを何一つ得ていない僕がこんなに偉そうに書いてしまったと、上を読み直して少し恥ずかしさを感じてる。ただ、自分の中の約束として、文章を書く時は、感情の昂りに身を任せると決めている。そういった閃きや感覚は大事にしたほうがいいかなと思っているからだ。

話を冒頭に戻す。
僕はその方に、海外でフットボーラーとして生き残っていくために本当に多くのことを教えて頂いている。(そのことについてもいつかお話したい。)
その中で、
「ナオも今後外国人のエージェントとチームとの契約について話すこともあるだろう」
と話して頂いたことがあった。
その交渉の時がきたことを想像して改めて真剣に考えた。

「人生を決める交渉の中で、一つ一つの会話やニュアンスを正確に且つ刹那と言えるほど迅速に対応しなければならないとなった時に、聞き取れない、ニュアンスの違いがわからないと言っていちいち調べてたら、自分の裏で他の選手の契約を企んでいて、タッチの差で負けて交渉破棄になったり、契約内容が蔑まれたりするかもしれない。」

その交渉は突然やってくるかもしれない。もしかすると、明日かもしれない。(現在の実力ではまだ可能性は低いかもしれないが。)

海外挑戦において隙は許されない。隙だと思わせない。
ピッチの外なら尚更。

そのリアルな瞬間を想像して、また自分の英語力に絶望する。


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