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“ふつう”ってなんだろう

“ふつう”ってなんだろう?

そんなこと、考えないのかな、ふつう。

でも、これからの社会をよくしていくために考えておく必要はあると思うんだ。

まずは、辞書的な意味。

ふつう【普通】
㊀ その類のものとしてごく平均的な水準を保っていて、取り立てて問題とする点が無い(良くも悪くもない)こと(もの・様子)。
㊁ その類のものに共通する条件に適(カナ)っていて、特に変わった点が認められない▵こと(もの・様子)。
〔㊀の大部分の対義語は、特別。㊁の一部の対義語は、異常〕
(新明解国語辞典第七版Web) *例文省略

ふむふむ。まあ、違和感はない。

じゃあ「平均的な水準」って何なのか?
じゃあ「共通する条件に敵う」ってどう判断するの?

実は、「ふつう(普通)」を考える上で重要なのは、むしろ対義語だったりする。

「特別」、あるいは「異常」。

例えばの話。

JRで普通列車といえば、各駅に停まる列車だけど、なぜ各駅停車が普通なのか?

旧国鉄では、準急、急行、特別急行(特急)という乗るために別料金が必要な列車を「優等列車」と呼び、速達性と優位性を持たせていました。
別料金が必要な「優等列車」に対して、運賃だけで乗れる列車を「普通列車」と呼ぶのです(だから「快速」は「普通列車」です、余談だけど)。

急に鉄の話で何が言いたいかというと、「普通ではない何か」が設定されたり認識されたりして初めて「普通」というカテゴリ(あるいはレッテル)が生まれるということ。

「普通」であることが、ネガティヴである場合もポジティブである場合もあるけれど、それは対義語としての「普通でない何か」がポジティブだったりネガティヴだったりすることの裏返し。

だとしたら、人となりや人生に「普通」なんてあるんだろうか。

「普通」を人に当てはめたいとき、どこかに「普通でない何か」を設定するわけで、何を根拠に「普通でない」というかといえば、それは「少数派」ということだ。

その結果「普通」とされるのは、ただの「多数派」というだけ。
それを「平均的な水準」であるとか「共通の条件に適っている」と判定する基準にするなどあまりに傲慢ではないか。

人は生まれながらにしてそれぞれが特別なのだ。Niziプロジェクトの中でJ•Y•Parkさんも言っていたよ。

「特別」というと、優劣を伴って言われがちだけど、それぞれが別というだけのこと。「個別」の意味を含むと考えればいいのでは。

自分の特別も相手の特別も大切にし合う中で、「普通」であることに何の意味があるだろう?

「普通でよかった」と安堵する時、無意識に『普通でない何かを虐げている』という意識が持てるか否か。

差別のほとんどは、この「普通か否か」という感覚から起こると思っていて、差別問題の解消は「普通でありたい」という感覚を疑うところから始まると考えている。

人を語る時、「普通」を持ち出すのはもう止めにしよう。

ボクたちは、みんながそれぞれ特別な存在なのだから。


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