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愛の威を借るモノ

昨日、恋と愛の違いについて書きました。

その中のこの部分

さて、互いに恋し合ってお付き合いになったら、その恋の感情は愛へと昇華していきます。

昇華していかないといろいろまずいんですが、今回その件は置いといて。

この“置いといた”ところについて書きます。

恋し合ってお付き合いになった二人の感情が、次に愛へと昇華していく。

しかし、これは互いに昇華し合わないといろいろ齟齬が生まれます。

一方で「相手のために」と愛をもって接しているのに、もう一方がその愛に寄りかかって、あるいは甘えるだけで、あるいは利用して、自分の欲求を押し付けるようになったら?

こうなると、自分の欲求を優先する意識を「恋」とは言えなくなります。

それは「支配」であり、「操縦」です。

DVやモラハラはこういう経緯で生まれます。

互いに愛し合っている状況とは到底言えません。

支配や操縦を愛の名の下に為してしまうのは、その人が受けてきた間違った愛(=支配であり操縦である)を再現しているから。

真実の愛を通して覚醒すればドラマチックですが、残念ながら期待薄でしょう。

必要なのは根気強く愛することではなく、専門的なカウンセリングです。

加えて、支配や操縦を受け入れてしまうのも愛として偏っています。

相手を愛するために必要なのは、実は自分をしっかり愛することだとも思うのです。

ナルシシズムということではなくて、自分が自分であるために自分を大切にするということ。

ここがしっかりしていれば、相手の支配や操縦の理不尽さや愛情の欠如、ズレに気付き、指摘できるはずです。

支配や操縦は、受ける側の盲従によってエスカレートするのです。

愛といえば親子の情としても大切ですが、親から子に愛の威を借る支配や操縦があると、それは歪んだ愛となってしまいます。

この事件の例は極端ですが、それゆえにわかりやすくもあります。

真実の愛を与えるためには、自らを愛してなくては難しいのです。

自分に感じる不満や不足を、愛の威を借りて子にぶつけることは、本当の愛ではありません。

にもかかわらず、「あなたのためを思って」支配や操縦をしてしまう。

性愛のパートナー同士でも、親子の間でも、互いを一個人と認め合い、自分とは別個の存在であることを認め合うことも、愛し合う上で大切な視点なのです。

まとまらなくなってきましたが、自分を愛して相手を愛する。
そんな愛が広がって、愛が溢れる社会になりますように。

愛は、真心だから。

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