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わたしがカテゴライズをやめた理由

わたしはHSPである。そのなかでもHSS型というものに分類されているらしい。

太陽星座は天秤座で、月星座は蟹座である。

A型で、マルチポテンシャライトで、16パーソナリティは藤井風とおそろいのINFPである。


noteやTwitter(なつかしい呼び名)では、HSPだとかMBTIだとかにくくって発信している人が多いので、それらがふと目に入るたびに思うことがある。


マジで人それぞれじゃね?


仮に上にあげたような、わたしとまったく同じカテゴライズの誰かが存在したとして、その人とわたしはまったく同じ要素で構成されることになるのだろうか。当たり前だがそんなことはあり得ない。


そのカテゴライズにすべては当てはまらないし、当てはまるところもあれば当てはまらないところもある。


そんなに単純化して、画一化して、まるっとなにかに押し込めたものの中に、わたしたちは集約されるようなたやすい存在なのだろうか、と。



わたしも一時期自分の性質があまりにまわりの一般的な価値観の人たちとかけ離れていて、ふつうは疑問に思わないところを疑問に思ったり、普通の人がごく普通にこなせることをまったく人並みにできなかったりして、自分はどこかおかしいんじゃないかと思って生きてきた時期が長かった。



とくにHSPという性質が騒がれ始めた頃、敏感とか繊細とかでは済まされないような日常生活に支障をきたすほどの生きづらさが解消するのではないかと、ずいぶん同じ性質を持つ人たちのセミナーに行ってみたり、本を読みあさったりしたものだ。



しかし分類して分類して、突き詰めまくった末に思ったことは、こういったカテゴライズ系は突き詰めれば突き詰めるほど、



なにかにくくれるものではないし、みんなそれぞれ違う人間なんだ。



ということを思い知らされるばかりなのである。



自分の輪郭がぼやけているとき、自分が何者で、なにを考えていて、どんな傾向があるのかわからないとき、なにかを見失っているとき、さらにいえば自分を見失っているとき


これらの指標はとても心強い味方になるだろう。


わたしもひたすらなにかに自分を当て嵌めて、何かの型の中に自分が存在しているのを確認して安心していたころは、自分が誰で、なにをしたくて、どこに向かっているかわからないときだった。


そしてまるでそれが自分自身かのように錯覚して、自分を知った気になっていたのだ。


まるで自分の核となる何かや、自分というものの存在を証明してくれる何かとても大切なものに出会ったように。


でもカテゴライズをえんえんと続けてみて、わたしはなに一つ自分自身のいちばん中心にある核のようなものに結局出会えなかったのである。



なにかに当てはめると安心する。
同類も見つけられる。
所属感もある。



でも「型」は「型」であって、自分自身を示すものでもないし、もっというのであればあなたはそんな「型」のなかに押し込めてしまえるほど小さな存在ではなくもっとあなた自身であり、唯一無二でしかないのだとわたしは思っている。



オーダーメイドの、ひとつしかない、あなたを構成する唯一無二のブレンドが存在する。



それはどんな型に当て嵌めたとしても、見えてこないあなただけのデザインなのだ。



よりオーダーメイドにこだわり、おもしろい仕事ややりたいことを追求し続けるひとたちをみて、つくづく人は唯一無二であり、その人にしかできないことがあるのだと思い知ることばかりである。



iPhoneの充電が1%しかないのに、ふらっと入った近所のごはん屋さんで充電器も持ち合わせず、それなのにこんなことをふと思いついてしまったために、最後まで文章を書き終えられることを願いながら記事をあげることとする。


以上がわたしがカテゴライズをやめた理由だ。

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