
This is a pen.
物事や言葉に対して、
あーでもないこーでもないと考えられることが、
人間の良いところであり、悩みを作り出す部分なのだと思う。
仏教の「一の矢、二の矢」の話をご存知でしょうか。
私だと説明がうまく出来ないので、他サイトから引用させていただきます。
お釈迦さまは「悟りを開いた聖者」と「悟りを開いていない凡夫」との違いを、第一の矢と第二の矢で例えました。
何か物につまずいた時に「痛い!」と思う。
美しい花を見て「きれい!」と思う。
これが第一の矢です。
この第一の矢は、悟っている人も悟っていない人も、同じように受けます。
問題は第二の矢です。
「痛い!」と思った後に、「だれだ!こんなところに物を置いて!」と怒る。
花を見て「きれい!」と思った後に、その花を摘んで家に持ち帰りたくなる。
これが第二の矢です。
「痛い!」と感じた後、次に怒りに移行する。すると怒りはどんどんエスカレートし、いつまでも心は不快なままになる。
「きれい!」と感じた後、その花が欲しい!となり、花瓶に飾りたい、庭で増やしたい、と執着の心がはたらき続ける。
「聖者も凡夫も第一の矢を受けるのは変わらない、しかし悟った聖者は第二の矢を受けない」
お釈迦さまはそうおっしゃいました。
SNSを見ていると凄くわかりやすいんですが、ものを見る視点が
人によって本当に違うんですよね。
勘違いされるような書き方とか、伝わりにくい表現というのもあるのは確かなのだけど。
お喋りだけならスルーされそうなことも、文字になると読み返せるから色んな受け取り方されるのかもしれないね。
色んな場所で繰り広げられるクソリプとかも第二の矢で。
「思っててもいいけど、言わんでもいいんじゃない?」
「リアルな友達に言うならわかるけど、全く知らない人に言うソレ?」
「このタイミングでそれ言う?」
と感じることもあって、こうなるともう、第二の矢から受ける第二の矢で。(この場合は第三の矢なのか?知らんけど)
で、人の話を聞いていると、「第二の矢で悩んでいるんだな」と思うことがよくあります。
「こういうことかな?」「いやきっとこうだ」
と考えるうちに、誰が飛ばした矢なのかも忘れてたりする。
なので、視点を変えることで悩みが解消されることもあるんだよね。
心理療法として、「事実」と「主観」が異なることを確認し軌道修正していく認知行動療法というのがあるけど、
お釈迦様 a.k.a 仏陀の言う、一の矢、二の矢の話だなと思いました。
かくいう凡夫のわたしも、「第二の矢を受けない」ということはいまだに出来ません。
だけど「これって、◯◯ってことかな?」と相手に聞いたり、分かったふりせず質問することを極力やるようにしてます。
特にパートナーに対しては、一緒に暮らしているし、その擦り合わせが凄く大事で、「私はこう思って○○したのに!!」「どうして○○してくれないの!!」とかって夫婦喧嘩をしていた我が両親たちとは全く異なる、平和な日々を送れています。
あなたの第二の矢は、どうなっていますか?
ただそこにあるペンに対して
「This is a pen.」
と、ただ感じられているでしょうか?
11月からオンラインサロンをやろうと思って準備中です。
月2回zoomをやる会。
またお知らせしますね。
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