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呪いがとける、夜明け前

10年ほど前の25歳ぐらいごろのお話。
飯田橋にある『富士そば』のカウンターで、冷やしきつね蕎麦を注文した時のことだった。

カウンターには、たぷんたぷんに水の入ったピッチャーがあり、コップに水を注ごうとして持ったところ、手が滑ってピッチャーの蓋が外れ、コップはもちろん、ほぼ食べていなかった冷やしきつね蕎麦やテーブルに、滝のような水をぶちまけてしまった。

心の中で「あ...」と思ったのだけれど、びしゃびしゃになったカウンターを見ながらも、私の意識はボンヤリしていて、何の言葉もリアクションも発せなかった。

するとカウンターの向こうの厨房から見ていた店員さんが、すぐに布巾を持ってやってきて、さっさと片付け、何も言わず新たに冷やしきつね蕎麦を作り直してくれた。

「...ありがとうございます」と、小声で私は言った。

その頃私の心はそこになく、仕事以外の空いた時間は、ひたすら食べ物を口に入れていないとソワソワして落ち着かなかった。

本来の自分は心の奥でじっとしていて、感情がなくなり、私は私の体を借りて、狭い操縦席からただ外側のようすを見ているような、自分が自分でない感じだった。
のちに心理学の『解離』という言葉を知ったのだけれど、それに近いものだったのかもしれない。

当時は友達2人と一緒に住んでいたのだが、他人と暮らすのが初めてだった私は、友達と自分の距離感がうまく調整できず、境界線が曖昧になり家にいてもリラックスできなくなっていた。

そして自分が過食症だということを打ち明ける事もできず、当時は料理も苦手だったため、外食やテイクアウトで過食を重ねるようになっていた。
どこにも居場所がなく、過食しているその瞬間だけは、そこに居られるような気がした。
過食が終われば罪悪感や虚しさでいっぱいになるのに、当時の私にはそれしかなかったのだ。

なるべく人と接することを避け、毎日似たような格好でデスクワークのアルバイト先に足を運び、誰かと打ち解けもせず、黙々と仕事をした。
そうして稼いだバイト代のほとんどを食費に費やし家賃をなんとか払っていたが、誰かに遊びに行こうと誘われても、いつもお金が無く、何に対しても楽しさや幸せを感じられず、毎日がつらくて仕方がなかった。

心療内科のクリニックは19歳の時に一度行ったきりで、でももう身も心も限界で、今度こそまたクリニックを探して行こうか、どうしようか、でも、一体どのクリニックに行けばいいのだろう、と悩んでいた時だった。

検索して出てくるような、摂食障害専門のクリニックは予約でいっぱいだった。このような病は風邪のように1週間分の薬をもらってじゃあ終わり。ではなく通わなくてはいけないのに、前途のように過食費に費やしていたので、お金に余裕も無かった。どうしよう。

しかし、まさにそんな時、わたしはアルバイト先で膨大な数の人物写真を見るうちに、人の多様性に気付いて、体に対する自分の歪んだ認知を疑い始め、自分の体と気持ちを受け入れる実験をし始めた。

誰かが教えてくれたわけではなく、自分の体を否定し、過食症に悩み、このまま辛い状態のまま年をとり続けていくことが、本当にもう無理なのだ、と心の底から感じられたとき、気持ちが大きく動いた。

試行錯誤の末に、1年ほど経ったころには、私に過食は必要ではなくなっていた。というか、できなくなっていた。
人生にうまくいかないことは必ず起きる。でも昔のように過食をする代わりに、自分の気持ちを言葉に表して人と向き合うとか、別の方法を選べるようになった。
過食が辞められなかったのは、自分にとって過食が必要だったからなのだ。

私の呪いが解ける直前は、最も暗い闇の時間だった。
今もしそんな状態の人がいたら、もしかしたらもうすぐ先に、出口があるかもしれない。




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