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いのちを頂くということ、感謝祭の食卓

先日の木曜日は感謝祭でした。

私はお肉は食べませんが、集まる家族や友人のために毎年七面鳥を焼きます。

放し飼いでオーガニックの餌だけ食べてきたhappy な七面鳥さん、前日にバターとハーブを練ったものを鳥皮の内側と外側にまんべんなく塗り込みます。

自分の手のひらを使って、

「ありがとう」の祈りもいっしょに塗り込みます。

この行為が毎年私にとっては、頂くすべてのいのちへの象徴的な、感謝の儀式なのです。

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私はお肉は食べませんが、お魚や、もちろん野菜は食べます。ぜんぶ同じいのちです。自然界で、食べられることを自ら喜ぶのは、フルーツだけだそうです。食べてあげないと、種が出てこないから。だからフルーツはあんなに色鮮やかで、目立ってる。なるほど、と思いました。


今年は、娘のパートナーが狩りに行って、採ってきたばかりの大鹿(エルク)が感謝祭の食卓に並びました。

娘の家族は年に一度、コロラド州まで足を延ばして狩猟をしたお肉だけで一年間の自分たちの肉を、なるべく賄うようにしています。魚もそうです。それは、なんて理想的なんでしょう。

彼は、一頭のメスの大鹿をしとめて、それを背負い、祈りと感謝の大きな思いの中で、テントを張っていた場所までの3マイル(4.8キロ)を歩いて戻り、解体したそうです。

私も一口だけ、数年ぶりにお肉を頂きました。

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柔らかくて、瑞々しくて、すっと喉に溶けていくようでした。

彼が、食べるまえに目を閉じて、しばらく祈っていた横顔が印象的でした。

草原を走っていく大鹿が、そのいのちを私たちに渡してくれた瞬間を見届けていた、彼の心情が伝わってきたのです。


子供達が小さい頃、オフグリッドの山中で暮らしていたことがあります。冬になると雪で、山の中に数週間も閉じ込められてしまう場所です、

雪が溶け出したある朝早く、散歩に出かけた夫が、マウンテンライオンに襲われれて、いのちを落とした鹿を運んで戻ってきました。

ハラワタだけを素早く採っていったのでしょうか、鹿は美しく、まだ温かかったのです。

私たちは、その山からの贈り物を頂くことにしました。

そのときに頂いた、鹿のことを今回思い出したのです。

それは私たちにとって、初めての、とても特別で神聖な体験でした。

そう、「食べる」という日常のいくつもの場面は、実はどんな時でも神聖なものだとその時 気がついたのです。

動物も魚も野菜も果物も、すべてのいのちが私といういのちを豊かに生かしてくれていることを、

この神聖さを、

いつも、いつも、新鮮な気持ちで思い返すことができますように。


素敵な感謝祭でした。





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