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人間はアクセルを踏み、前に進む存在

こんにちは。今日は「アクセル」について。

明確なネタかぶりですが……

昨日に引き続きネタ切れ真っ盛りですが、今回は過去に扱ったテーマについて改めて考えてみたいと思います。

そんなわけで今回は「アクセル」です。推進力、と言い換えてもいいでしょう。過去記事では主に「アクセルとブレーキ」「ブレーキ」の回で語っている話ですね。両方四ヶ月前の記事です。

それでは前提確認も済んだところでいざ本編。なお、この前提を意識して今回を書いているわけではない(むしろ違うことが書きたい)のであしからず。

アクセルを踏むということ

アクセルを踏む、推進力を得るということには様々な要素が絡みます。加速する・エネルギーを使う・体に負荷をかける、あたりになりますね。当然車はそれらに耐え、推進力を得られるように作られています。

もう少し考えると、車は「重量のある物をまとめて早く遠くまで移動させるために作られた機械」と表現することができます。

その機能美は確かに存在しますが、車は美術品にするために作られたものではありません。その車それぞれのフィールドで走ってなんぼです。

ここで人間や動物に議論を戻して、これらはなんのために作られているのかを考えてみますと、ざっくり言えば世界の中で生存し・次の世代につなげるためではないでしょうか。

そして人間は生存するために日常で様々な活動を行います。古来では狩り、現代では仕事などです。これは何もしていないときに比べ、より多くの活動を同じ時間に突っ込むことになります。「加速」ですね。

この加速に伴いエネルギーが使われ、肉体に負荷がかかると考えると。人間もまた「前への推進力」を得るために作られた存在、と言うこともできます。

もちろん肉体を美術品にするという発想もありだと思いますが、人間も車と同じく、それぞれの道を突っ切ってなんぼな存在なのでしょう。

行動停止を自然にしてはいけない

ここで考えてみたいのが、「エンジンオフ」という観点です。

確かにエンジンをオフに出来ればエネルギー消費や加速によるダメージを回避することができますが、人間の代謝は止められませんし、そもそもこれは前に推進する人間の機能に反します。

アクセルでもブレーキでもない、危機回避でも予測修正でもない、行動停止が「エンジンオフ」です。

もちろん行動停止が絶対悪、と言うつもりはありません。なにか大きなショックを受けたときに一部で推進を停止することは十分有り得る話です。多分私の闘病初期にもそんな時期はあったはずです。

ただし、そのあり方は(少なくとも)私にとっては不自然でもあります。実際私も闘病開始からしばらく後にはその不自然さを解消しようと動き出していましたし。

この不自然さは見ないふりでごまかしてはいけないものです。不自然さを正しく解消する手段を諦めるには、残りの人生は長すぎると思うのです。

尻切れトンボですが、今回はここまでにします。

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