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意味を纏う

私は、「纏うストーリー」で、

ほんの少しずつ感情を仕組んでいる。

感情を、まろやか・おだやか・爽やか・フレッシュ・あたたか・にこやか、にしてくれるストーリーを、私は少しずつの感情設計の処方箋として持っている。


私の本名は《なお》という。

ハワイ語ではさざなみっていう意味があるらしい、かわいくてうれしい。

ところが実際、私という感受性は、さざなみどころか揺れに揺れて波が大きく、結構航海にも難航する。


だから、私にとって、自分の感情を「事前に設計として”仕込み”」かつ「事後に再構築する”火を通す”」すべを身につけていくことは、私という乱暴でパワフルな感情と理性に溺れないための航海術だ。



手を引かれて、はじめて通れる道がある

私にとって、ことばやストーリーは、膝を抱えて留まってうごけなく淀みはじめた心にひとすじの水を流してくれたり、うつくしい水滴をおとしてくれたり、軽やかな風を通してくれたりするものだ。

だから、自分にとって「心地いい風」や「あたたかい水」を注いでくれる存在をみつけられると、けっこうつよいんじゃないかなって思う。

それはことばじゃなくてもいいし、写真でもデザインでも音楽でも香りでも、いいんだと思う。


たとえば、私はエッセイストの夏生さえりさんのことばがそのひとつだ。

さえりさんのことば、さえりさんに見えていそうな世界には、いつもそういう風のような、うつくしい雨粒のようなやさしい爽やぎを感じる。


さえりさんは、ときめくことばたちで有名だけど、

たとえば最新著書『揺れる心の真ん中で』では、等身大に未来へのふあんや過去が思い出になっていく、終わっていくことへの、どこか乾燥したような孤独感も、家族への愛しみも、綴られていて、「みずみずしい」ってこういうことなんだ!と何度でも思えたりする作家さん。


さえりさんのつむぐことばのような世界を感情を、わたしも編めたらいいなと毎回思う。さえりさんのことばに乗れば、さえりさんの感覚を一緒に眺められるような気持ちになれる。映画アラジンの魔法の絨毯に乗って、自分っていうお城の中だけじゃ見えなかったものを見せてもらっているような気分になる。


「別にさえりさんのことばじゃなくても似たような景色を見られるか?」と言われると、「そうじゃない」のだ。


似たシチュエーションや、同じような不安、同じ何かに対する感覚でさえ、さえりさんの感覚はさえりさんだけのもので、彼女は実にさえりさんしか編めないことばの紡ぎ方であざやかに描き出すのだ。


じつは、私は、「ブランド」ってそういうものなんじゃないのかなと、思っていたりする。


ブランドのくれる”価値”

実は今まで「好きな”ブランド”は?」って聞かれて即答することができなかった。

小学生の時の「りぼん派?なかよし派?」からはじまり、「MORE派?WITH派?」とか「SHIPS派?BEAMS派?」とか、しぼられてさえも即答できたことが一度もなかった。

正直「すきだなあ」って感じたら買うし、ブランドっていう概念をあんまり意識したことがない。おそらくそのブランドの持つ傾向など、俯瞰する意識が低すぎることが原因なんだろうけど、私にとってブランドってそのくらい曖昧なもので、輪郭なんて水彩のゆらぎくらいのものだった。


ところが、そんな私にはじめて、英語で例えると「 a shirt 」ではなく「 the shirt 」を買いたいと思わせられたのは、件のさえりさんがきっかけだった。

さえりさんが、私物をフリマに出品されたのだ。

「売りたいような、売りたくないようなお洋服を出しています。もっと着てくれる人のところに届くならいいな…!」

そんなフレーズとともに、そこには彼女のイメージカラー(と私が勝手に感じてる)である青や白の洋服が並ぶ。さえりさんがたいせつに選びたいせつにされてきたお洋服と思い出まで、一緒におすそわけしてもらえるような感じがした。


「このシャツでいいかな。」

ではなくて

「このシャツがよくて、たいせつに纏いたい」

そうやって、初めて服をほしいと思った。


誰か(例えば恋してる相手)の好みに合わるわけでもなく、

コスパで選ぶわけでもなく、

纏いたい「感じ」とか「その服が連れてるストーリー」で、服を選んだ体験だった。


その時得たのは、「衣服」っていう機能じゃない。

「さえりさんの視点で世界を見るせすじ」を伸ばせるような、服が連れてきてくれる「意味」や「ストーリー」を得たのだ。


「ブランド」が、機能ではなく「意味」とか「ストーリー」なんだなあってことが、はじめて自分ごとになった体験だった。


感情を(再)設計・(再)構築する

以来、私は「淀みはじめる可能性がある日」や、「とってもときめきそうな日」に、「さえりシャツ」(と勝手に呼んでいる)を着るようになった。

「さえりシャツ」はこっそり仕込んだ私の魔法の絨毯だ。

ときめきそうな日には、「さえりシャツ」で私のときめきを許す。ときめいてる解像度をあげてもいいよって、許す。

淀みそうな日は、「さえりシャツ」で、さえりさんならサラサラって笑って流すなあって、感情ハックみたいなことをする。


自分の感情をごまかすとツケはあとでやってくるけれど、一方で思考の習慣っていうのもあるから、

たとえば雑に扱われて悲しいとか・怒りとかを無理やりイイコして我慢するようなメンタル自傷のようなものは、積極的にその筋肉を使わないようにして衰えさせていきたい。

もっと、別のさわやかかな水路に水を通してかろやかに生きたい。



思考だって習慣だ。

自然発生的って思いがちだけど、こう思考すると「成功」率が高かった、みたいな思考筋がどんどん発達して、かつて「成功」したときと環境がかわってもなかなか適応できずにいるってことだって多くある。

だから、真似したい感情は、こうやって積極的に、「沼に落ちる前に」仕込んでおくのだ。

そして、万一落ちてしまったら、自分の感情を再設計・再構築するのだ。

そのときに、補助輪として「纏うもの」のチカラを借りる。


そういうチカラをくれるのが、私にとっての「ブランド」だ。


今も、ストーリーや顔が見えないブランドのモノ(例えばすごいハイ・ブランドとか)でそういうペダルを漕ぐことはあんまりないのだけれど、ことばや思考っていう、その人固有の「ブランド」にはチカラを借りることがたまにある。


自分じゃなくなりたいわけじゃない、ただ、ちょっとその人が見てる視界を自分が見るならこうするねっていう、背伸びとか視界の角度を変えたりするって言う感じ。


(ちなみにちょっと最近自分的上級になったのは、自分で「色」に対してストーリーを編んで、今日はこういう気分を仕込みたいから、この色で仕掛けよう、とかもたまにやるようになった。これはまた別途かけたらいいな)


こういう感情設計の仕込みや、再設計・再構築は、もちろんある程度心に余裕があるときじゃないと「考えられない」から、もはや仕組みとして、「あ、アカンつらい、着よう」みたいに考えずやって回復できていくようにしている。

こういう仕掛けは、自分航海術としては結構、いい感じにコンパスを戻せるなあと思っている。


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