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心地よいズレが人を惹きつける

年明けから受講しているヨガのRYT200資格取得のための講座で、ティーチングのレッスンが始まった。

ティーチングとは、インストラクターとしてレッスン中にアーサナ(ポーズ)の説明をしたり、呼吸を誘導したりしながら、自分も体を動かして生徒にお手本を見せていくことである。

これが、思っていた以上にむずかしく、そのむずかしさを前に途方に暮れている。

これまでヨガを続けてきた18年間、わたしはずっと生徒の側で、先生の声に合わせて体を動かしてきたわけで、そのときは呼吸と体のことだけ意識を向けていればよかった。
それが指導の側に回ると、体を動かしながら、つねに言葉で指示を伝えていかなければいけない。そもそも、そのことの体力的なハードさ。

また「今この瞬間に何を伝えるか」の判断力。
呼吸についてなのか、筋肉への意識なのか、生徒さんがキツいポーズをキープできるように、肉体のしんどさばかりにとらわれている意識を少し引き離してあげる言葉なのか。

オンラインで順番に発表し合うのだけど、緊張と冷や汗で声がふるえるほどで、こんな状況、ここ最近ちょっと他に思いつかないくらいである。
ティーチングの発表の前日は、食後にお皿を洗いながら、お風呂に入りながら、つねにセリフをぶつぶつとつぶやき、寝る前まで頭のなかで予行演習をしていたりして、おかげで眠りが浅くなり、1時間おきに目覚めてしまう始末である。やれやれ。

ヨガインストラクターの国際資格である以上、そう簡単にとれるものだとは思っていなかったけど、こんな局面に立たされるとも予測していなかった。齢50にして、自らの未熟さと不完全さを思い知らされている。

先生が一人一人に対して、具体的な改善点とアドバイスを伝えてくれるのだけど、全員に対して伝えてくれた「大事なこと」にハッとさせられた。

それは「正しいティーチングが、必ずしも『届く』ティーチングではない」ということ。

このポーズのこのタイミングでこのセリフを言う、ということばかりにとらわれて、暗記して、それを間違えずに実践できたとしても、それが好印象や高評価に直結するわけではない。

大事なのは「この人のヨガはなんとなく気持ちいいな」「動きやすいな」「ちょっとだけがんばれるな」と思ってもらえること。その波長は言っていることの正しさからではなく、人として惹きつけられることから生まれる。そしてむしろ、規則正しい声かけより、ちょっとだけズレているくらいのほうが、心地よかったりするのだと。

正しさよりも好ましさ


それを聞いて、わたしのなかで別々の場所に落ちていた点と点がつながった感覚があった。

これって、Voicyと同じだ。
声や話し方の個性が生み出す波長。
それを心地いいと感じてくれる人がフォロワーになってくれて、話を聞き続けたいと思ってくれる。

Voicyの緒方社長がいつも言う、「正しい話より、その人が心から語っていると伝わってくる話が人を惹きつける」という話。
もちろん頭では納得しながらも、わたしはVoicyを始めて半年以上、毎回台本を用意していた。自分のしゃべりが遅いこと、瞬発力がないことを自覚していたし、その方が収録に要する時間も短く済むとわかっていたから。

けれど、Voicyスタートから1年が経った今、もう台本は用意していない。だから、「今日はこういう話にしよう」と思っていたテーマから、だいぶ離れた場所に着地してしまうことも、よくある。それはこのnoteにしても同じで、タイトルを先に書いておいて、本文を書き始めたら、書き上げたときにはタイトルとはもうひとつかみあわないオチになっていて、結局本文に合わせてタイトルを書き変える、なんてことを、毎回のようにやっている。

でも、たぶんそれでいいのだ。
自分の語りにしても、エッセイにしても、前もって用意したとおりになんて、事は運ばない。
一人の作業でもそうなのだから、相手がいるレッスンならなおさらだ。

ヨガの語源は「yuj(ユジュ)=継なぐ」であるという。
頭と心と筋肉と呼吸と声、すべてを一本の糸でつなげるようにして、動きながら言葉をつむげるように。
もちろんその境地にたどりつける日が何年先になるかなんてわからないけれど、少なくとも目指すのは、そっちの方向だ。


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