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カッコ悪いわたし、がカッコいい人

久しぶりに高峰秀子さんのエッセイを読んだ。

彼女のエッセイは他にも数冊持っていて、とくにネタの幅が広いわけではないから、いつも読み出しは「あれ、前にも読んだかな」という既視感から始まるのだけど、惚れ惚れするような文章力にいつしか引き込まれ、読み終えた後は、その話の閉じ方の見事さ、余韻のふくよかさに、もう唸るしかない。文章がうまいとはこういうことをいうのだ、という真実に毎回向き合わされる。

高峰秀子さんはそもそも5歳のころからスター女優なので、年齢を重ねても美しく、エッセイの行間から垣間見える暮らしやおしゃれに対する独自の美学も、品がありつつ地に足がついていて、感じがいい。
この人がどうしたってだらしない人であるわけがないし、雲上人として一般人から遠ざけられてしまっても仕方がないはずなのに、その類稀なる文才でもって、ちゃんと読み手の共感を呼んでしまう。それは「カッコ悪いわたし」を語るセンスが抜群だからであり、それこそが彼女の文章のカッコよさだとわたしは思っている。

とくに今回読んだエッセイ『にんげんのおへそ』は、彼女が筆を折る直前、70代に入ってから書いた文章を集めたもので、あとがきに背景が明かされていたが、たまたま「老い」をテーマに書いたエッセイがあまりにおもしろいからと、編集者からそれをもっとふくらませて書いてほしいと懇願されたのだという。本人はまったく気が進まなかったが、家族の説得もあって本当に渋々と書いたそうだ。
が、読んでいる間はこちらはそんな経緯も知らずに、話の運び方の華麗ともいえるなめらかさに毎回唸り、感嘆していた。
老いという、いずれ誰もが行き着く人生の終着駅にひそむ、おかしさ、せつなさ、物悲しさ、かすかな希望のようなものが、そうした直接的な言葉を使わずして、見事に1本1本のエッセイに表現されている。
とくにすごいのが、せつないとは思わせても、痛々しいとまでは思わせないところだ。それは味わい深い文章の到達点として、言葉一つ一つ、文章の一行一行が光を放って見えた。

以前わたしは『心地よさのありか』というエッセイ集で、「さらけ出し方を学びたい」という文章を書いたことがある。
自分の不完全さをさらけ出す文章や語りがうまい人に憧れる、という話を書いたのだが、そのときは村上春樹さんの新刊を読んだ直後ということもあって、文章については彼のエッセイを例として挙げた。ちなみに語りの方は、本では名前を出していないが、あのときわたしが対談番組をきっかけに好きになったバンドのリーダーとは、いきものがかりの水野良樹氏のことであった。

そのエッセイにも書いたのだが、自分のことを、ズボラとか面倒くさがりといった切り口から敷居を下げて語るのは、そう難しいことではないと思っている。それは手軽に、読み手に親近感を持たせられる常套手段だけれども、見るからに「できそう」な人が使えば、その意外性によって好感度が上がるという効果もあるけれど、そういうわけでもない人の場合は「ふうん」で終わってしまう。

わたしが憧れるのは、そうした安直な形容詞で自分を落とすところから親しみをもたせようとする文章ではなくて、文章運びやエピソードの語り方で、人間の「愛すべきカッコ悪さ」がじわじわと浮かび上がってくるような書き方だ。高峰秀子さんのそのあたりの表現力はまさに名人級だし、そうした視点から、最近読んだ本で感動したもう一人の書き手が、くどうれいんさんだった。『うたうおばけ』をめくりながら、いい文章を読むしあわせにじんわりと浸った。


高峰秀子さんもくどうれいんさんも、文章の締め方がいつも素敵だ。わたしは以前、いい文章は書きだしの一文で決まると思っていて、その点で向田邦子さんの文章の書き出しにしびれまくっていた(もっと遡ると学生時代は太宰治の文章の書き出しが好きだった)けれど、最近は、締め方がいい文章にとても惹かれる。

素敵な文章を読んで「あぁ、いい!」としびれるアンテナを持っていると、本を読む時間がいっそう楽しく、しあわせに感じる。だからそのアンテナを鈍らせないように、わたしはずっと読み続け、書き続けていきたいと思う。

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