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入試問題と音読

家にこもるのは大好きで、得意でもあるはずなのに、最近ちょっとしたことで心のバランスがグラッとなる自分に驚いている。

テレビから新型コロナウィルス関連の情報が流れてくれば動揺するし、かといってあまりに能天気な番組も見続けられない。
ラジオのトーンには安心を得るものの、やはり騒動前よりはテレビやネットの情報をチェックする頻度が増えた。

欧米の状況は現時点で日本よりだいぶ深刻だと伝えられているけれど、今の日本のムードは数週間前のニューヨークのようだ、と警鐘を鳴らす現地の医師もいたりして、そのたびに不安はまた更新される。
家でのんびり過ごす、という行為は同じでも、やはり普段のしあわせなおこもりとはまったく違う時間を生きていることは、たしかなのだ。

インスタグラムでもブログでも、読んだ人が不快にならないのはもちろん、なるべくネガティブな内容は書かないという基本姿勢でいると、こういう状況下ではいろいろと考えあぐねているうち、腰が重くなってしまう。
このnoteは、ブログのテンションよりもう一歩深く、自らの奥で渦巻いていることも記録していくつもりで始めた場所ではあるものの、政治を含め現状を憂えたり、誰かを批判したりすることをわたしが文章として書くことにはあまり意味がないように感じて、今回は本当に書くテーマがなかなか浮かばなかった。

しかしそれでも休まず更新することに意味を見出したいと、なかば意地というか、個人的なこだわりではあるけれど、思う。
そこで、この1週間を振り返ってみて、その重く沈んだトーンのなかでも心があたたまり、励みとなったことを書き留めておくことにする。

自分が書いたエッセイが入試問題になった話

先週、ウェブサイトのコンタクトフォームからメールが届き、わたしが2017年に出版したエッセイ集『心地よさのありか』に収められている「つくるか?買うか?」と題したエッセイが、公立高校の国語の入試問題に使用されたと知った。

メールをくれたのは日本著作権教育研究会の方。
入学試験はすでに終了しており、メールの主旨は、これから販売される過去問題集にも文章が掲載されるため、二次使用許可をいただきたい、というものだった。
はじめての経験なのでびっくりしたが、著作権法によると試験問題に文章を使用するのに事前に著者の許可を取る義務はないのだそうだ。

いや、たとえ事前に許可を求められたとしても二つ返事で了諾したに違いない、光栄な話である。
訪れたことのない遠くの地で、中学3年生の子たちが、受験の緊張と闘いながら制限時間とにらめっこでわたしの文章を読み、設問を解いてくれている姿を、頭の上に思い描いた雲のなかで勝手に想像して、感激で胸がいっぱいになった。

一応、こちらも現在進行形で中学受験生の母をやっている身である。
見本としてpdfで送られてきた問題を興味津々で読むと、エッセイのところどころに傍線が引かれ、「本文中で筆者は、~だと述べているか。本文中の言葉を使って30字以上40字以内で書きなさい」とか、「~本文中では何と表現されているか。最も適しているひとつづきの言葉を、本文中から6字で抜き出しなさい」とか、なるほど、こうして設問をつけてもらうと、いかにも国語の文章問題という感じになっていて、また感激。

この一件に一番はしゃいだのは娘で、「ママ、超すごい!これはマジですごいよ!」と普段の反抗的な態度が嘘のように、めずらしく絶賛してくれた。そのこと込みで、最近いちばんうれしかったこと、かもしれない。

文章を音で聞いてみること

また娘の話で恐縮なのだけど、来年の2月までは、「中学受験生の母」という役割が自分の存在意義の大半を占めているように感じながら過ごしているわたしなので、まぁ仕方ない。

今年も入学式の季節だが、小学校入学と同時に(予備知識がない人にとってそれは突然に)始まり、それから毎日毎日続くのが、国語の音読の宿題である。今は全国的に奨励されている動きなのだろうか? 少なくともわたしが小学校時代にはこんな宿題はなかったけれど、別の都道府県のお母さんに聞いても、たいていは「うちも毎日ある(あった)」という返事が返ってくるから、現代の小学校の宿題の定番ではあるのだろう。

教科書の音読が宿題ということは、それをじっと聞き、漢字の読み間違いがあれば指摘し、終わったらハンコを押すのは親の仕事である。
短めの詩なんかは気楽だけど、説明文とか、ちょっとシリアスな長めの物語文のときもあって、さぁもう寝るぞ、というときに「ちょっと待って!音読の宿題忘れてた!」なんてことがあると、おいおい勘弁してくれよ……と、うんざりする。しかし娘は、そんな親のうんざり顔など気にもかけず、音読が大好きなのである。

そんな彼女が少し前から、わたしのブログやこのnoteの文章を音読する楽しみを知ってしまったらしい。
ちょうどいい息抜きになるみたいで、勉強をしていて切りのいいタイミングになると「さーて、ママの文章、音読しまーす」と、器用にPCを操って読み始める。

こちらとしては、最初のころはまぁ恥ずかしいというか、なんとも居心地の悪い気分だったが、誰かの声を通して自分の書いた文章が耳から入ってくるのは、それはそれでなかなか楽しく、新鮮な気持ちになるのだった。
文章の構成とか流れとか、文体のくせみたいなものに客観的に気づかされることもあるし、それなりに有意義な時間となっているかもしれない。

この春で小6になる娘は、将来やってみたい仕事、なりたい職業だらけなのだという。最大の夢である歌手のほか、ナレーター、ラジオのパーソナリティー、一方で文房具メーカーに勤めてみたい、小学校の先生もいいな、などと挙げ始めたらきりがないのだけど、「そうだ、あと文筆家も」なんて言うものだから、慌ててつい「儲からないから、よく考えた方がいいよ」などと大人の助言をしてしまった。

でも、自分が書いたものを子どもが声に出して読んでくれる、そんな仕事は、儲けるのはなかなかむずかしいにしても、しあわせではあるのだろう、たぶん。
そのことは、忘れないようにしよう。

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