見出し画像

スポーツウェアへの片想い

新しいフリースを買ってしまった。

昨年も、モンベルのモコモコのボアフリースブルゾンを買ってみたところ、あまりの温かさに大感激。寒い家の中を、毎日お守りみたいにして着ながらひと冬を過ごした。

しかし、そんな「ライナスの毛布」化が災いしたのか、春の衣替えの際あらためてそのブルゾンを見ると、たったワンシーズン着ただけとは思えないほどのヴィンテージ感が漂っていた。とくに劣化がはげしいのが肘部分で、毛足がだいぶヘタッてしまっている。まぁ部屋着だし、家族しか見ないし、と割り切れればいいのだけれど、部屋着姿の自分が見すぼらしいのは、40代もそろそろ終わりかけ、心身ともに悩みにまみれて疲弊している今の状態を、さらに落ち込ませる。

それに、以前より外出の機会が激減している今、反比例して部屋着の着用時間は増えている。ならば、ここで多少なりともおしゃれの楽しみを味わいたいというもの。ダイアン・キートンへの憧れだってあるんだし。

で、ダイアン・キートン風に白っぽいニットとパンツを着たとして、秋まではそれで気持ちよくても、それのみでは冬を越すことはできないのが、わたしの家と年齢なのである。

やっぱり、お守りにフリースがほしい。

ただし、ブルゾンは肘部分の劣化だけでなく、家事をするときに袖が邪魔になるという問題もあったので、今年はベストを買うことにしよう。
まずは王道のパタゴニアが思い浮かんだものの、あくまで部屋着前提であるため、お値段的にどうも二の足を踏んでしまう。いくつかのサイトのフリースベストをチェックしながら数日悩んで、結局L.L.Beanに決定。ちょうどフリース製品がセール中だったことも背中を押した。

あたたかさと引きかえのパワー


思えば、フリースベストを買うのは生涯初めてだ。10日ほど待ってそれは届き、さっそく着てみる。……わ、何これ!あったかーい! 控えめに言って、最高かも。

こんないいもの、なんでもっと早く買わなかったんだろう。冬がやってくるたびに寒さに震えていた過去の自分を思い出して悔やまれるほどだ。料理や水仕事のときはニットの袖をサッとまくるだけでいいし、フリースのアウターって背中とお尻があたたかいだけで体は冷えを感じないものなんだな、と実感(しかし本格的な冬はまだ来ていないので早合点の可能性もあり)。

がしかし、フリースベストを羽織った瞬間、ダイアン・キートンとはきっぱり決別となった。この服が持つパワーは、体がほっと安心するあたたかさだけではなかった。ある種の破壊力というか、それ以外の服の「ニュアンス」みたいなものをまるごと覆い尽くしてしまう力が、そこにはあった。

いや、そもそも昨年だって、フリースのブルゾンを着ていた真冬の期間はダイアン・キートンどころではなかった気がするし、古着っぽいワンピースやロングスカートなんかと組み合わせれば、おしゃれの着地点もありそうだ。
とはいえ、家族しか見ない部屋着という範疇で、日々そのモチベーションを保つ自信はない。あぁ、やっぱりスポーツウェアはむずかしいのだ。そのことは、わかっていたはずなのに。

似合わないけど必要な服


本当は、カシミアのガウンとかで過ごしたいのだ、わたしだって。
実際、一人でマンション暮らしをしていたころは、そういう趣味を貫いていたんである。だってマンションはあったかいし、一人分の家事くらいで服は汚れないから。

当時は、正月に帰省すると、両親をはじめ姉と兄家族もみんなそろってスポーツウェアを着ている(うちはわたし以外全員スポーツ好きなのだ)のを「これぞザ・実家の風景だわ」とどこか冷めた目で見ていたっけ。

日が暮れて冷えてくると、わかりやすく防寒着らしい服を持っていないわたしに、母が「これ着てなさい」と、アウトドア用のシャカシャカした上着を貸してくれる。いくらお気に入りのカシミアのニットを着ていても、それを羽織った瞬間、田舎の散歩スタイルに変身。あぁもう、台無し!当時まだアウトドアやスポーツウェアの機能の素晴らしさに開眼していなかったわたしは、そうした複雑な感情、どちらかといえば「アンチ」くらいの苦手意識を、そのカテゴリーの服に対して持っていた。

苦手意識を増長させていたのは何より「自分に似合わない」という事実だった。
たとえば運動系の部活動に励む学生たちが着るジャージは、その服を着る目的が明確であるがゆえ、「似合う」も「似合わない」も介在する余地がない。
しかし大人が、スポーツをするという目的以外、それもおしゃれの狙いも含めてスポーツウェアを着ようと思ったら、そこには「似合う」「似合わない」という事実が厳然と迫ってくる。

身長が高くて骨格もしっかり、いわゆる大柄なわたしは、スポーツウェアを着るといきなり「元バレー部」って感じ(実際に元バスケ部なんですが、なんとなくイメージ的に)になってしまうのだ。
ファッションの編集の仕事を通してモデルさんという「服が似合うプロ」を日常的に見ている間に、逆に「似合わない」という目も厳しくなってしまったせいもあるだろうか。
あるいは、20代のころ、細くて小柄な女の子がボーイッシュなスポーツウェアやアウトドアウェアを着るユニセックスファッションが大流行したとき、この体格のせいで流行にうまく乗れなかった敗北感もあるのだろうか。
とにかく「自分にはスポーツウェアが似合わない」というレッテルをべったりと貼ったまま生きてきた。

その一方で、近年はヨガやジョギングというスポーツが日常に組み込まれるようになったこと、また郊外の古い家に暮らしていると「服が汚れる家事」に日々追われることもあって、「家でジャンジャン洗濯する前提」で作られているスポーツウェアのありがたみを知ることになる。「似合わないけれど必要な服」。それが今のわたしにとってのスポーツウェアなのだ。

服の目的とズレている?


そんなわたしが「結局、大柄とか小柄とかって問題じゃないんだ。だってこの人たちのスポーツウェア姿はこんなに素敵だもの」とため息をつきながら目の保養としているのが、パタゴニアのカタログやサイトに登場するアクティブウーマンたち。たいていがっしり体型だけど、部活っぽくもならず、「そうそう、こういうのが正解よね」と、そのいきいきと躍動感あふれる姿に納得させられる。
……と、そのとき気づいてしまった。スポーツウェアは、あくまでスポーツをする人に寄り添い、その姿を輝かせるものである、というシンプルな事実に。

つまり「家でじっとデスクワークしたり受験勉強したりするときの防寒着としてフリースベストを着る」のは、服の本来の目的と、おそらく根本的にズレている。
けれど、あたたかさと家事のしやすさを求める現在のわたしのニーズに合っているのも事実なのだ。ならば、これを着て素敵に見えるかどうかという問題にはある程度、目をつぶらなくてはいけないのかもしれない。

来年、娘の受験が終わった暁には、このフリースベストを着て、野外で焚き火したり、星空を見に行ったり、なんてことをしたいな。それならきっと服の目的にぴったりだろうから。

*今回は、新しいフリースを買ったことをきっかけに、2017年刊行の著書『心地よさのありか』に収録した「スポーツウェアの壁」というエッセイの続編をイメージしながら書いてみました(イラストは本に収録したときにエッセイの挿画として夫が描いたもの)。久しぶりに前作を読み返してみたところ、スポーツウェアに対する悩みと解決には3年以上経っても大した進歩はない、ということがわかった次第。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?