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レビューの品格

日曜の朝も、平日の体内時計によって午前5時半には目が覚める。
そのままベッドのなかで本を読むという休日ならではの贅沢に浸るか、それともベッドから出るかは、『ボクらの時代』の顔ぶれをチェックしてから決める。

先月末の日曜日、隣で先に目覚めていた夫に「今日の『ボクらの時代』、だれ?」と聞くと、「今日はすごいよ。ぜったい観ないと」。
はたしてそのすごい顔ぶれとは、あいみょん×鈴木敏夫×吉岡秀隆であった。 
三人とも大好き。この三人がおしゃべりしてくれるなんて楽しみすぎる!とワクワクしながらベッドから飛び出した。

作品と受け取り側の関係性に物申す


この鼎談、顔ぶれだけでなく、トークの内容もとてもよかった。
とくに「なんていい話だ」と心に残ったのが、昨年大ヒットした、わたしも大好きな曲『裸の心』のリリースにまつわるエピソード。
あいみょんにとって初のバラード曲だったが、これは「配信主体の今、サビまでが長くてゆっくりしているバラード曲は売れない」という昨今の音楽業界の「ヒットの法則」をスタッフから聞かされ、「それがくやしくて。わたしはやれる気がする」と奮い立っての挑戦だったという。

結果、定説を見事に覆してのヒットだったわけで、この曲で紅白出場も果たしたあいみょんは、本当にカッコいい!とますます好きになった。

上のリンク記事にもその対話が載っているが、あいみょんの話を受けて吉岡氏が語ったことが、またよかった。
「アーティストがいて、作品が生まれて、それを受け取り手が観る、聴く、という順番のはずが、いつのまにか受け取り手に合わせて作らないといけないことになってる。出来上がったものを批判されても、それはその人の感受性が足りないだけで、作品のせいにするなよ、って言いたい」

きっぱりとそう言い切り、しかも「図々しい」という表現まで用いた純くん(と呼びたい『北の国から』世代です)に、しびれた。
ちなみに純くんのこの発言は、自分をアーティスト側に置いているのではない。あくまでアーティストの才能をリスペクトし、その作品に救われてきた受け取り手側の一人として、周囲を見回しながら近ごろ目に余る「ファンが作品を受け取る姿勢」について物申したのだと、わたしは解釈した。

だからこそ、ここまで強い言葉で言えるし、それを聞いたあいみょん(=アーティスト側)が、自分のモヤモヤを代弁してくれた!と喜びをにじませていたのが印象的だった。
だって、アーティストが同じ発言したら、即「オレ様」の烙印を押されてバッシングにさらされてしまうのがオチだろうから。

読者レビューに求めるもの


この番組を観たタイミングと前後して、「ファンが作品を受け取る姿として残念な例」をうっかりネットのレビュー文で目にしてしまい、一人モヤモヤした一件があった。
自分の作品に対する批判ではないので、わたしも純くんと同じく「受け取り手側の一人」として、読者のレビュー文についてあらためて感じたことを書こうと思う。

それはある雑誌のAmazonレビューとして投稿された文章だった。
わたしも取材していただいた雑誌で、自宅に届いた掲載誌を読み、編集側の気概が伝わってくる内容に読者としてもワクワクした一冊だった。
出版不況のなか、とくに雑誌の厳しさが伝えられている今だからこそ、売れるといいな、売れてほしいな、と陰ながら願った。

ところが発売後にふとAmazonを見ると、その雑誌に酷評ともいうべきレビューが入っていた。発売から数日しか経っておらず、レビューはまだその1件だけ。買おうという気でそのページにアクセスしてきた人は、何の心構えもなく、まずそれを読んでしまうだろう。

内容の主旨は、「長年の読者だからとても期待していたが、自分が望んでいた内容ではなかった」という、ただそれだけなのだが、個人の主観を、批評家のように終始上から目線のトーンで書き連ねた長いレビュー文である。
しかも途中に、わざわざ出版社に呼びかける文章まではさみ、読者層をもっとちゃんとマーケティングするように、などと書いてあり、きちんと作られた雑誌に対して、匿名の読者がぶつけるこうした心ない言葉が多くの目にさらされてしまうこと、そして自分がそれを読んでしまったことにも、やりきれない気持ちになった。

本や雑誌を愛する一読者として、または一人のネット書店ユーザーとして、こうしたマナーに欠けたレビューを書き込む人に「本当にやめてほしい」と言いたい。
自分の作品に対するレビューだったら、たぶんここまで腹は立たない。
もちろん悲しく、つらい気持ちになるが、それも読者の反応として真摯に受け止め、次に生かさなければという意識がはたらくからだ。

愛あるお叱りの手紙


「あなたの著書に収録された写真のなかに、和のしきたりに反している風景を見つけて、不快な気持ちになりました」というクレームのお手紙を受け取った経験がある。

その手紙は、出版社気付のわたしの名前宛の封書であったため、編集担当の方はてっきりファンレターだと思い、開封せずにそのままわたしの自宅へ転送してくれた。ところが受け取って読んでみると、中身は上記のようなクレーム的内容だった。

でも、送り主の住所も名前も明記してあることや、わざわざ切手を貼って送ってきてくれたことに、わたしも、手紙の内容を共有した担当編集者も、ショックを受けると同時に、「ありがたい」という感謝の念を抱いた。
「若い人は気にしないかもしれないけれど、世代によっては自分のように違和感を持つ人もいることを知っておいてください」という思いが、自筆の手紙を通じてしっかりと伝わってきた。それはたしかに、愛のあるお叱りだった

わたしはすぐ、自分の非常識を恥じ、せっかく本を買って読んでくれたのに不快な思いをさせてしまったことを詫びる手紙を書いて、その方に送った。

けれどもし、まったく同じ内容の文章が、いつのまにかAmazonレビューに投稿されていて、それを偶然目にしたら、と想像してみる。
真摯に受け止めねばと思いつつも、「ありがたい」とまでは思えなかったかもしれない。
伝える方法によって、相手の心への届き方はそれほどまで違うことを、わたしは身を以て学んだ。

それは有意義な投稿なのか


ネットのレビュー評価は購買者の決断を後押しする大きな指針となる。
だからレビューとして投稿された文章は基本的に「これから商品を買おうとしている人にとって役立つ情報」であってほしい。
批判的なレビューも、製品としての不良や欠陥の報告は「役立つ情報」といえる。また商品が出版物の場合は、コメントが感想に傾くのは自然なことだし、でもそれが読者としての感動を伝えるポジティブな内容ならば、これから買おうとする人にとっても、作り手にとっても、有意義なものになる。

そのいずれにもあてはまらない、単に感性や趣味の違いによる個人的でネガティブな感想を、一言のつぶやきならまだしも、長々と書く意地のわるいレビューは、映画のネタバレレビューと同じくらいの迷惑行為だとわたしは思ってしまう。

気軽に出歩けない今、本や雑誌をネットで買う機会はますます増えている。
それでも最新のタイトルを自宅にいながら購入できることは、本の作り手にとっても受け取り手にとっても大きな希望となっている。

そんな希望をつないでいるネット書店での買い物に、読者レビューが担う役割は、とても大きい。
せっかく投稿するなら、「これいいよ」「ぜひ読んで」と読者が本のよさを勧め合うレビューで、その商品ページにポジティブな空気感をつくれたらいい。買う側は、そうした空気のなかで購入ボタンをクリックし、商品の到着を楽しみに待ちたい。

出版社に伝えたいほど強い信念に裏打ちされたクレームならば、編集部宛にメールや手紙を送ればいいのだ。わたしが受け取って感謝をした、あの手紙のように。

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