23年間HSS型HSPに苦しんだ話

自分の深層部について話すときは、いつも緊張します。

Bブロ合宿を終えて、私がHSP、それもHSS型HSPであることについてやっときちんと人に話そうと思えたので書いてみます。



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説明は割愛します。とてもわかりやすい記事があったので。


思い返せば、幼い頃からこの気質は存分に発揮されていました。

人と過ごす時間が苦痛に感じる、集団の中で周囲と同じ行動ができない、誰かに見られていると全く作業に集中できない。自分の世界に引きこもっている方が好き。母親いわく、授業参観日の休み時間はずっと一人で宇宙や科学の図鑑を読んでいて、この子には友達がいないのかととても心配したそうです。

小学校のいつだったか、毎日狭い教室で集団生活を送ることに耐えられず、一週間ほど保健室に通っていたことがありました。もちろん先生には仮病だとばれ、親に連絡されてからはやめましたが。

そんな子どもが同調圧力の強い日本で過ごすとどうなるか。当然「変な子」だというレッテルが貼られます。目が合ったクラスの男子に突然「お前って、なんか変」と言われたことは今でも鮮明に覚えています。


ミュージカルを始め、中学では生徒会に入り、オーストラリア研修にも参加したことで、半強制的に私は社交的な面も持てるようになりました。初対面の人と話すことが得意になる一方で、本来の内気で暗い自分とのギャップが少しずつ大きくなっていくことには目を背けていました。ただ漠然と、「海外に出たい」と考えていました。普通に生きているだけで「変だ」と言われる私は、みんな同じが良しとされるこの国に自分がはまりきれていないことだけはなんとなく感じ取っていました。この「周囲とずれている感覚」が、自分はダメな人間だと自信を失っていく一要因でもあったのかも。

そんな私は、大学受験について考え始める時期にこう思いました。「賢い人って、変な人多いよな」と。どこで過ごしても浮いてしまうなら、変な人が集まっている環境にいけば私も馴染めるんじゃないか。偏差値58の高校に通っていた私の中で、その考えが日に日に強くなっていきました。そんな高校2年の暮れに、映画館へ1人で観に行ったのが「杉原千畝」です。これだと思いました。数学が壊滅的にできない私が、この先3度の阪大一般入試と1度の神戸大の編入学試験を受けることになったモチベーションは、自分に一番合った環境で過ごしたいという気持ち。普通にしてるだけで変だ、とか、おかしいって言われることもない環境。外務省を目指すことは、いつのまにか手段に成り代わっていたのかもしれません。


私は楽しいことが大好きです。それは友達とエアビーで過ごす時間だったり、お酒の場でちょっと真剣な話をする空間だったり、大好きなBTSのライブに参戦する熱狂だったり。遊びの範囲にとどまらず、Kpopのカバーダンスサークルや模擬国連に挑戦してみたり、東南アジアのブルネイでの研修に参加したり(コロナで10日前に中止になった)。

だけど一方で、だんだんと自分の首を絞めていくようにも感じていました。本当の私は社交的でも明るくもほわほわしてもない。暗くて内気で、卑屈な私。そしてどこまでも上ばかり見ている野心家な私は誰が受け入れてくれるんだろうと。ずっと憧れていた大学で、私の違和感が薄れるくらい「変わった」人たちとたくさん出会っても、結局私は私のままでした。自分の二面性ならぬ三面性をまとめきれず、将来どんな風に生きたいかもわからなくなり、気づいたら休学していました。もうこれ以上この生活は続けられない、どうせ私がどこで何したって受け入れられる場所なんてないから。それが本音でした。


だけどTABIPPOに入って、やっと「馴染めている」という感覚を得られました。あまりにも多種多様な人生がそこにはあって、私が変だなんて気に病む余地はなかった。休学している人は山ほどいるし、私のプレゼンを聞いて「実は自分もHSP」って打ち明けてくれた人も何人かいるし、みんなフッ軽すぎてすぐサイコロで西日本一周とかご当地スタバ巡りの旅とかに出ちゃうし。私の見ていた世界が狭かっただけで、ちょっと環境を変えればこんなにも面白い人たちがいるんだって気づけました。改めてTABIPPOのみんな、ありがとう。みんなの反応を見て、私は私のままでいいんだって思えたので、もっと自己開示をしていこうと思います。


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