さよならサンダーバード、2024年3月16日北陸新幹線福井開業
2024年3月16日、ついに私の故郷の福井県に新幹線が開通する。
この記事を書いている時から遡ること8年前の2015年3月、北陸新幹線が開業し、北陸三県のうち富山県と石川県には新幹線が開通した。
北陸新幹線の開通により、富山県と石川県は、海の幸や情緒あふれる歴史遺産を売りにして人気の観光スポットとして全国にその名を知らしめた。
その一方で、福井県は北陸新幹線開業のお祭りムードに8年もの間、取り残されていたことになる。
参考:「北陸新幹線プロジェクト 2023年度末 金沢~敦賀駅間開業に向け、北陸新幹線プロジェクト進行中」『JR 西日本』(2024年3月3日最終閲覧)
福井の中には「別に新幹線なんて要らんよ、お金高いし」という声もあったが、福井県は新幹線を自分の県に通すために頑張った。
2010年代後半から福井県の各地で新幹線の工事が行われるようになった。
私が帰省するたびに、新幹線の線路や駅の工事が遅れている、追加予算が必要になった、開業が遅れているというニュースを耳にしていた。
特に「追加予算」と聞くと「そんなにお金がかかるならば作らんでもいいのに」とも思ったりした。
紆余曲折を経て、2024年3月に福井県に新幹線が開通することになった。
開業時期が決まったとなると、新しくオープンする駅の商業施設や新しく開設される新幹線駅についてのニュースを連日目にするようになった。
また新幹線開業記念の一環として、明治時代の福井県で眼鏡産業の基礎を築いた増永五左衛門(ますなが ござえもん;1871-1938)をモデルにした映画『おしょりん』が2023年秋に公開された。
実は小泉孝太郎氏が演じた増永五左衛門は、私の高祖父(祖父の祖父)である。
この映画は、明治時代の様子を撮るにあたり、福井県各地の文化施設や自然豊かなスポットでロケが行われた。
映画のネタバレになるので簡単に触れるにとどめるが、眼鏡産業に着手し、事業拡大するにあたり、増永眼鏡の創業者の増永五左衛門が、借金をしたり、土地を売ったりして大変苦労した様子が映画では描かれている。
今となっては、福井県は日本のメガネフレームの95パーセント以上を生産する眼鏡大国として有名となったが、何事も最初の基盤作りが極めて難しい。
明治の眼鏡産業と令和の新幹線、どちらも事業を始め、続け、盛り立てることが困難だという共通点があるように思われる。
ちょっと話がずれてしまったが、新幹線は不安と期待を背負って2024年春に福井県にやって来ることとなった。
しかしそれに伴い、福井県から姿を消すものもある。
それは北陸と関西を結ぶ特急列車、金沢・敦賀間のサンダーバードである。
北陸新幹線が敦賀まで開通する2024年3月16日以降、サンダーバードは、敦賀・大阪間のみの運行となるとのこと。
・参考:「金沢―敦賀間の特急サンダーバード、しらさぎ廃止を発表 JR西日本、敦賀駅で乗り換え必要に」『福井新聞』(2023年8月31日付記事)
つまり北陸の人が大阪に行くには、まず北陸新幹線で敦賀まで行き、敦賀からサンダーバードに乗り換えて京都や大阪に行く必要がある。
今までは特急サンダーバードで福井から乗り換えなしで京都・大阪に行くことができたので不満の声もある一方で、乗り換え地となる敦賀駅の活性化も見込まれる。
何はともあれ、何度も延期したが、2024年3月16日、福井に新幹線はやって来る。
2024年3月上旬現在、福井の人々は期待を膨らませていると同時に、不満や不安は拭えていないというのが現状である。
たまたま2024年3月に一時帰国中であった私は、最後に福井から京都までサンダーバードを利用することにした。
今回のnoteでは、「福井での」サンダーバードの最後の利用体験とともに、私とサンダーバードの思い出を書いていきたいと思う。
2024年3月某日、サンダーバードに乗るために鯖江駅を訪れた。
北陸と関西を結ぶ特急列車サンダーバードは、福井県内ではこれまで北(金沢方面)から、芦原温泉、福井、鯖江、武生、敦賀の順に停車していた(一部の便は鯖江と武生には停車せず)。
「特急「サンダーバード」の停車駅と所要時間」『JR線ご利用案内』より抜粋(2023年8月1日更新記事)
2024年3月16日に北陸新幹線が福井に開通、金沢・敦賀間の特急サンダーバードが廃止となると、鯖江駅と武生駅は、特急停車駅ではなくなってしまうのである。
実際、新幹線開業前から鯖江駅構内にあったセブンイレブンは早々に閉店してしまった。
通学に鯖江駅を使っていた学生は大変不便な思いをしているという声を聞いた。
また鯖江駅には、特産品の眼鏡に特化したアンテナショップが併設しているのだが、こちらも2024年9月をもって閉店してしまうとのこと。
新幹線の停車駅となる福井駅と敦賀駅、そして福井と敦賀の間に新しくできる越前たけふ駅は、盛り上がりを見せているが新幹線ができることによって逆に不便になる駅もあるのだ。
かつて京都の大学に在籍していた私は、福井から京都へ行くためにこの鯖江駅を何度も利用した。
この鯖江駅、ひいては福井県の丹南エリアをどう盛り上げていくかという課題を胸に刻みつつ、サンダーバードに乗車するためにホームに向かった。
お馴染みのサンダーバードの到着音が流れてくる。
何度も何度も聞いた音だけど、これを鯖江駅で聞くのはもう最後かとすでに寂しさが募ってきた。
2024年3月初旬のある平日、大阪行きのサンダーバードに乗り込むと、平日にも関わらず自由席は満席であった(切符を購入する時に指定席には幾分か余裕があることを確認した)。
福井県の人々からは「3月9-10日は、サンダーバードが走る最後の週末だからサンダーバードで関西に行ってくる」という声をちらほら聞いたので、この週末は席に座れない人もいたのかもしれない。
鯖江駅を出発すると5分ほどで武生駅に到着する。
武生駅を出発すると、サンダーバードは速度を緩めることなく、今庄駅や南条駅など各駅停車の駅をズンズン通過していく。
通り過ぎる景色もどんどん寂しくなり、いよいよ山しかないとなってくるとふと車内は暗くなり、ザーっと言う音が流れてくる。
そう、北陸トンネルに入ったのである。
福井県南条郡越前町と福井県敦賀市にまたがり、木ノ芽峠の真下に位置する北陸トンネルは、長さ13,870mと、現在JRの狭軌(きょうき)在来線では日本最長のトンネルである。
その歴史は古く、開通したのは1962年(昭和37年)のこと。
北陸トンネルに入ると出るまでに10分間はかかるために、その間、インターネットを使うことができない。
そのために北陸トンネルに入る前は、友人へのメッセージや仕事のメールをチェックせねばと俄かに慌ただしい。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」
という川端康成の『雪国』の有名な書き出しをご存知の方も多いと思うが、冬に大阪行きのサンダーバードに乗るとその逆を味わうことができる。
つまり北陸トンネルを抜けて敦賀に出ると、これまで目にしていた分厚い雪が消えてしまうのである。
敦賀は福井県といっても、方言も気候も滋賀や京都に近い地域である。
もっとも「トンネルを抜けると雪国」という川端康成の『雪国』の世界を味わいたいならば、冬に金沢行きのサンダーバードに乗ればよい(2024年3月16日以降は北陸新幹線になってしまうのだが)。
いずれにせよ、北陸トンネルは、私にとって明確にこちらとあちらを区別するものである。
大阪・京都方面に向かうサンダーバードに乗り、北陸トンネルを抜けると、雪が消えたことに対する安堵と福井の家族に対する心配がごちゃ混ぜになって胸の奥がすんとした。
反対に金沢・福井方面に向かうサンダーバードに乗り、北陸トンネルを抜け、灰色の空の下に白くて固い雪がちらほら見えてくるにつれ「寒さに負けぬようにせねば」と気合が入る。
ただ正直に言えば、私は、北陸トンネルに入ると聞こえてくるゴーっという音と振動によって眠たくなってしまう。
実はサンダーバードに最後に乗車した日も「サンダーバードの勇姿を目に焼き付ける」と意気込んでおきながらも、やはり北陸トンネルで眠りに落ちてしまった。
敦賀駅に到着した時にかろうじて目を開けたものの、日頃の疲れがあったせいか、そのまま目を瞑り、次に目を開けた時は滋賀県大津市の堅田であった。
これも言い訳に過ぎないのだが、この日は日暮れにサンダーバードに乗車したのと、通路側の席しかなかったのとでサンダーバードの車窓からの写真を一枚も撮ることができなかった。
車内の写真と私の回想で大体の雰囲気を掴んでいただけたらと思っている次第である。
さて、敦賀を抜けJR湖西線に入ったサンダーバードはすぐに強風の影響で止まることでも有名である。
このような強風の場合、サンダーバードは米原経由の迂回運転となる。
幸い、この時は米原経由になることなく、湖西線を走って列車は京都に向かった。
敦賀を過ぎると京都までは意外にすぐに到着するのだが、いつの間にかサンダーバードからなくなってしまったものを思い出した。
それは車内販売である。
サンダーバードでの車内販売は、実は2014年にすでに廃止されており、列車に乗る前に食べるものや飲むものを確保するのが常であった。
2014年より前のサンダーバードでは、北陸三県の駅弁やみかん、コーヒー、お菓子、お酒を詰んだワゴンが走行中の車内を往復していたことを記憶している。
車内で買うと割高なので、いつも私は食品を持ち込んでいたのだけど、今思えば何か買ってみてもよかったとも思っている。
そうこうしているうちにサンダーバードは、鯖江駅を出発してから1時間半弱で遅れることなくきっかり京都駅に到着した。
いつもならばすぐに駅の改札に向かうのだが、今回ばかりは大阪駅に向かうサンダーバードをホームで見送ることにした。
発車し徐々に速度を上げていくサンダーバード。
本当にこれでさようなら、とその姿が見えなくなるまで見つめ続け、きちんとお別れした。
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長々とサンダーバードについて書いたが、北陸から関西までこの特急列車に乗ったことがない方は「何のことやら」と思ったであろう。
それでも私は、人生の節目で何度もサンダーバードに乗ってきたと思う。
少女時代の家族旅行や大学受験、そして親の死など。
大学受験のためにサンダーバードを利用した際は、憧れの京都の地に行けるとはいえ、これまでの努力を無駄にすることなく平常心で試験を終えることで頭がいっぱいだった。
とはいえ、大学受験に向かう娘のために、親がサンダーバードのチケットを購入し、駅まで送ってくれたことを考えれば、私はまことに幸せな娘だったのだろうと思う。
また父親が亡くなった時も母親が亡くなった時も、私は京都にいた。
父や母とお別れをするために京都から福井に戻らねばならない、そんな時もサンダーバードに乗った。
特に母の死の時には、その日は朝から何も喉が通らず、頭がクラクラしてへたり込んでしまいそうだったので、車窓を眺めながら、無理矢理グラノーラバーを口に放り込んだのを覚えている。
まるでそれは砂を咀嚼しているようであった。
さて『源氏物語』の作者・紫式部が詠んだ和歌を集めた『紫式部集』の中に次のような歌がある。
「ふる里に帰るの山のそれならば 心や行(ゆく)とゆきも見てまし」
(故郷(紫式部にとっての故郷、つまり都)に続く鹿蒜山(かへるやま)の雪ならば、気も晴れるだろうと出ていって雪を見るでしょうが…)
参考:
・「8.2武生と紫式部」『九頭竜川流域誌』(2024年3月11日最終閲覧)
・「17 紫式部の見た越前(2)」『福井県立図書館・文書館』(2024年3月11日最終閲覧)
これは、紫式部が福井に滞在していた時に京の都を懐かしんで詠んだ歌である。
996年(長徳2年)、越前守に任命された紫式部の父・藤原為時は、紫式部とともに京都から越前国(現在の福井県越前市)に下った。
父にとっては、大国の国司ということで喜ばしい出世であったが、年頃の娘にとっては住み慣れた華やかな京の都を離れるというのはとても辛いことであったに違いない。
側仕えのものたちが庭で雪山を作り、紫式部を楽しませようとしても、紫式部は「雪山を越えて京都に戻れるならば嬉しいのにな」とため息をつくのであった。
結局、1年半ほど福井に滞在した紫式部は、父を越前国に残して都に戻り、その後、越前国を訪れることはなかったという。
そう、紫式部は、行く末(京の都)だけを見つめ、振り返ることはなかった。
平安時代の上流階級の人にとっては、このように山を越えることは一生に一度あるかないかのことであったかもしれないが、今ではサンダーバードのような高速列車で簡単に行き来することができる。
来し方と行く末(過ぎ去った道とこれから行く道)、かつて私にとって京都は行く末であったのに、あっという間に来し方になってしまい、今は海を渡ってイタリア・ミラノにいる。
このミラノも自分にとっての来し方になってしまうのであろうか、私はどこに向かっているのだろうか、分からない。
このように渡鳥のような生活を送っているからこそ、サンダーバードのように、いつまでもあると思っていたのになくなってしまう、そんなものや人たちに節目節目できちんとお別れしたいと思っている。
今回、京都駅のホームにて、大阪駅に向かって走り出し、どんどん小さくなっていくサンダーバードに対してきちんと「さよなら」を言うことができてとても嬉しいのである。
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