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ときには昔のツクール話を

ツクールフォーラムアドベントカレンダー2021 12/24の記事です。

お久しぶりですそしてはじめまして。
なおといいます。誰やねんですね。
ぼくは『元』ツクラーで最新のテクとかには疎いので、ちょっと昔の自分の制作について書いてみようと思います。
往年のユーザーさんは懐かしい、かな?
まあ便利になったなぁーって思っていただければ。

すべての始まり、1990年 Dante

MSX2で初代RPGツクールの『Dante』が出たのが’90年2月8日
初代と言っても公式設定はないですけども、まあそういうことになってます。
このDanteっていうのは、MSXマガジン編集部で生まれまして、2DD1枚にツクール本体とゲーム1本が入ってるんですね。2DD1枚って720KBです。今だと下手したら画像1枚でそのくらい食っちゃいますよね。
最初はサンプルゲームが入ってるから、自分のゲームを作りたければツクールのシステムごとフロッピーをコピーして使います。凄い仕組みですね。

MSXソフトカタログ’91のDante紹介ページ

ちょっと小さいけど上の画面写真見てください。
左半分がモンスターグラフィック8体、右半分がマップチップ(今でいうタイル)です。
これが全てなので、これだけのグラフィックをやりくりして作ります。
かの名作『ソーサリアン』には老人のローブの下半身と木の根っこが同じパーツだった、なんて話がありますけど、結構やりくりが上手くないとすぐ足らなくなりますね。BGMはデフォルトから選びます。主人公キャラ以外は動けません。主人公キャラはスプライトを使用していて、1ライン3色しか使えません。とまあそんな仕様です。

Danteのマニュアル!貴重品

Danteでは小規模なものしかできないので、壮大な構想を広げているぼくには無理でした。
何も完成しないまま次の時代へ行きます。

1992年 Dante2

Dante2です。’92年2月8日発売。機種はMSX2ですね。
なんでいちいち2月8日って言ってるかというとぼくの誕生日なんですね。
覚えておいてプレゼントください。

前作Danteから大幅パワーアップして、OP・EDビジュアルシーンは作れるわ、マップチップ1マスが1/4キャラサイズだからすっごい細かいマップが作れるわ、フォントも作れるわ、付属の作曲ソフトで曲も作れるわ、とにかくすごい。これはすごい。
ただまあ、RPGではなくてARPG専用で、出来上がる画面はイースの丸パクりみたいな感じです。あの画面枠まで作れました。

Dante2のマニュアル。中綴じに進化!

曲が作れるっていっても、当時ぼくは中学生ですけど、作曲どころか楽器もできない。そこで実家が筝曲の宗家で本人はフルート吹いてたクラスメイトに「曲作らない?」って言ってみたんです。で断られまして、仕方がないから自分で作り始めた。それが結構ハマって、その後10年くらいは曲作ってましたねぇ。
何事も安易に人に頼むより、やってみたほうがいいですよ?
特にまだ1本も作ったことがない人は、自分ひとりで他人の素材に頼らずにどこまで作れるかやってみると、新しい可能性を切り開くかもしれません。

しらんけど。

で、結局ぼくは何を作ったかというと、めっちゃ細かいヨーロッパの街並みを再現した街を一つ作って、あとなんか曲作ってましたね。
あーオープニング用にFM音源でレーザー銃の音とか雷の音とか作ってました。今ならやりません。
そしてゲームはできてません。まあそんなもんです。

同1992年 Dante98

MSXはもうオワコンだったので、ツクールは当時イケイケだったPC-98に移行します。『RPGツクール Dante98』!ここで初めてRPGツクールという名前が登場です。

Dante98の表紙。マニュアルが本体でツクールは付録。

このDante98、性能的にはちょっと後退です。
Dante98の前にチャイムズクエストっていうツクールの亜種が出てますけど、そっちの方が遥かに高性能(後に出るDante98IIよりも高性能)。にも拘わらず、主流はDante98です。
ツールの性能の違いが、作りやすさの決定的差ではないということを見せつけられます。
初代ドラクエがあえてゲーム内容を小さくまとめたのと似てますね?
ね?

Dante98時代には、作品発表の場ができます。ログインSOFCOMというムック。これがものすごく大きな出来事。
当時インターネットはないも同然で、ゲーム作っても見せる相手は家族か友達くらい。内輪ネタで笑いを取って終わりっていうパターンはよく見かけました。
しかし公式に発表の場ができたことで、数々の名作が登場します。
ぼくの名作は登場しませんけど。

賞金1000万円! Aコンの出現

ぼくは相変わらず、なかなか作品を作れません。
Dante98でゲームを作るなんて高尚な趣味はなく、「英雄伝説IIIスゲー」とか「プリンセスメーカースゲー」とかやってました。

そんなぼくにチャンスが訪れます。
優勝賞金1000万円のAコン(アスキー・エンタテインメントソフトウェア・コンテスト)の発表。
賞金のみならず、上位に入ればプロへの道も開けます。
さらに広井王子氏、渡辺浩弐氏、飯野賢治氏などそうそうたる顔ぶれの審査陣。これは応募するしかないと思いました。

目標は受賞。
これがぼくの人生をおかしくする最初の一歩となることを、ぼくはまだ知りませんでした・・・。

最初の1本!

’90年に始まったぼくのツクール人生、気が付けば西暦は’95年です。
中学生だったぼくは高校生に。
そんな高校生活最後の1年をゲーム制作に捧げることにしました。

捧げた結果ぼくは第1回Aコンで受賞し、ぼくの名前がツクールの歴史に登場しました。(すごい)
グラフィック、BGMなどの素材もすべて自分で作りました。
自分一人で作ったものが評価されると、それはすべて自分の評価なわけで、そういうところに強く惹かれていきました。
ぼくの身体は自己顕示欲で出来ていました。

同時期に有名だったのは『コープスパーティ』『DARK FORCE』など

この頃に思ったこと

ぼくは思いました。
どんなことでも、
5年続ければ人に発表できるようになる。
10年続ければ売れるようになる。
この考えは、四半世紀も経った今でも変わりません。どやぁ。

ぼくが作ったサウンドデータや曲がフリー素材として収録されました。

インターネットとツクラー

この当時には、インターネットが広まり始めていました。
まだ光回線などなかった時代で、ISDN回線だったかなぁ?テレホタイムとかありましたね。携帯電話はPHSで、都会でも電波が繋がりにくい時代です。
このときにはSOFCOMは廃刊になり、代わりにインターネットコンテストパークが開催されようとしていました。
Welcome to My Homepageと書かれたサイトが乱立し、片隅にはアクセスカウンター、掲示板ではキリ番GET、そんな時代です。

その頃、「ツクールの部屋」というサイトがありまして、入り浸っていました。そこには後に『SERAPH』などの作品を世に出すGOICHIくんもいて、彼とはそこからの繋がりなので25年は経ってますね。すごい。

で、あるときそこで「ツクールユーザーの呼び方を決めよう」みたいな話が出ました。当時特に呼び方は無くて、意思疎通に困っていたんです。
いろいろな意見が出た中で、最終的に「ツクラー」にしようということになりました。
2chとかでは、ぼくがツクラーという名前を決めたというデマが書かれていますが、そうではなくその掲示板のみんなの意見で決まったものですし、そこから広まったという証拠もないのですが、そんな感じです。

第3回Aコン

さてさて、次は第3回Aコンです。
第2回はどうしたって?ちょっと忙しくてまともに作れませんでした。
その頃、インターネットコンテストパーク(コンパク)がスタートします。
期間中にコンパクに出せば、自動的にAコンにも応募したことになるので、新作はそれを利用してW受賞させようと企みました。

新作はDante98IIを使用。
一緒に第1回Aコン受賞した尾島陽児くんがプログラムした最初のツクール。
今日のRPGツクールの礎を築き上げた。

結果的に、新作RPGはコンパクで受賞し、その後Aコンでも受賞します。
唯一のAコン2回受賞者になりました。おめでとう。

ところで、実はこの作品はコンパク版とAコン版で内容が異なっています
コンパク受賞時はぼくのイラストだった部分を、偶然知り合った別の絵描きさんにお願いしてすべて差し替えたり、ゲーム進行なども変えたりしています。
やはりAコンの方がハードルが高いので、コンパクでのフィードバックを踏まえて手を入れました。

インターネットの興隆

さて、’98年ごろはインターネット興隆期です。
公式のサイトも誕生し、早くから始めたぼくのサイトはそこそこ中心的存在になっていました。
その頃はツクールのローマ字表記は決まっておらず、「TKOOL」派と「TCOOL」派に分かれて血で血を洗う争いが続いていました。(ほかにもありましたが大きくはこの2つです)
ぼくは「TKOOL」を使用しており、公式サイトがどっちのドメインにするのか注目を集めていたのが懐かしい記憶です。
ツクール編集部としては「どっちでもいいですよ」と言いつつもそれはマクドナルドがマックでもマクドでもいいですよと言いつつ公式にはマックであるのと同じようなもので、結果は「TKOOL」となり、なぜかぼくがTKOOLを使ってたから公式もTKOOLになったのだとさえ言われました。

当時は「受賞者」という言葉が大きな力を持っていて、特にコンパクよりAコン受賞者の地位は絶大でした。それが2回受賞者なので、まあ持ち上げられもするし、ぼく自身も気が大きくなるというもの。
まだ20歳くらいですから。

分かってください。
チャットに入ると「え!?あの〇〇さんですか!!」「神が降臨された!」「本物ですか!?」なんて言われる状態を。
まあ、人間が出来てなかったことは否めません。

ツクール界

多分、その頃から「ツクール界」という言葉が使われ始めます。
ぼくも多用していたので、アンチが「ツクール界ってなんだよ」「お山の大将」などと言っていました….っけね。(泣いている)
ぼくはこの頃にサイトをリニューアルし、ツクール専門ポータルサイトを開設。公式をしのぐ「ツクール界」のトップサイトとして事実上君臨します。
ぼくのサイトに公式とは違うことが書いてあったら、ぼくのサイトの方が信用されていた。そんな頃もありました。

RPGツクール95の名作『SERAPH -eau rouge-』グラフィックはぼくが担当しています。

3本目の受賞はコンパク

さて、’99年には3本目の受賞作ができます。
RPGツクール for Windowsを使用したRPGです。これはダンジョンを深く潜っていくゲームで、様々な仕掛けをアクションで乗り越えていきます。
こちらはコンパクで金賞を受賞しました。
Aコンをどうしたのかは、覚えてません。本当です。

ところで、このnoteを書くにあたってエゴサしたら、初めて見る2chのスレで、この作品は「無理してる」と書かれていました。この言葉には今更ながらすごく納得しました。
まあ無理してることは僕自身気づいていて、次は無理しないものを作ろうと思いつつ何もできずにいる数十年です。

人で受賞させてる疑惑

2chなどでは、ぼくの受賞は「すでに何度も受賞している常連だから」だとか、「人気のツクールサイト管理人だから」だとか、根も葉もないことが書かれていました。
その根拠は、ぼくの作品がゲームとして今一つ面白くないからです。
なんでこれが受賞するんだ?
という声は多数聞こえてきました。

さて、’95年の段階でぼくは「受賞できる作品を作る」と決めました。
そのためにぼくの作品作りは、受賞のしやすさに最大の焦点が当てられています。これを受賞させておけば間違いないなと思わせるということです。

  • ツクールの限界に挑戦するようなシステムで可能性を見せる

  • 独自性の高いゲームシステムにする

  • グラフィック、サウンドなどの素材はオリジナルにする

  • 素材は既出のツクール作品の水準を越えるよう努力する

単純にプレイヤーとして遊んだ場合に面白いかどうかではなく、RPGツクールでここまでできたっていう可能性を伝えることが最も大切だと考えていましたし、そこに喜びを見出していました。
また、審査がしやすいように「攻略チャート」「マップ」を添付したり、制作への想いをしっかり書いたりしています。
いわば場外戦です。

多くの作品を審査する審査員に、きちんと目に留まり、しっかり作ってあるなと感じてもらいながらプレイしてもらうこと。
そうしたことが受賞につながっていると考えています。

本邦初公開、3作目の応募で添付した「最短攻略チャート」や「マップ」などの書類
楽に、早くゲームの全容が伝わるように考えた。

また、3作目にはオープニングに音声による語りを入れました。
当時ものすごくショボい録音環境で、しゃべるのも僕自身という悪夢の中、ナレーションを録りました。
これもツクールの能力を活かすというPRの意味が強くあります。プレイしたユーザーには酷評でしたが、それは審査の減点にはならず、加点になるのです。(多分)

伝説的ツクール『RPGツクール2000』の登場!

RPGツクール2000はご存じの方も多いでしょう。
尾島ツクール第2弾にして今でも大人気の1本です。
内容としてはDante98IIを煮詰めたような感じで、透過PNGが使えたりメッセージウインドウを作れたりとかなりの高機能。
解像度が320x240ドットという点や1チップが16x16ドットという低解像度が嫌がられてもいましたが、元々さわっていたMSX2のツクールは同じ解像度だったのでぼくはむしろ作りやすかったです。

RPGツクール2000のパッケージ
わくわく

あまり知られていませんが、この頃尾島くんは制作ツールのシェアウェアを作っています。
ドット絵ツール、自動作曲ツール、SE作成ツールです。
ドット絵ツールの『キャラクタレイザー1999』にはぼくも関わっていて、ツールアイコンを作ったりしました。時期的にお分かりかと思いますが、これはRPGツクール2000のために作られたもので、非常に親和性が高いツールです。ぼくは今でも愛用しています。

再びのW受賞目指して

また1回飛んで、第5回エビコン(Aコンから名称変更)とコンパクへのW受賞作品を作りました。
今度はアクションパズルです。
ツールは2000を使用し、またしても無理をしています。
でもいいじゃないですか、それで受賞できるんだから。
目標は受賞なんですよ!(開き直り)

同時期に町屋さんの『BELIEVE it or not』の制作にも参加させてもらいました。
ぼくの作品よりはるかに人気です。

2001年初の商業作品

さて、2001年になんと、初の商業作品を作ることになりました。
誰、最初で最後って言ったの。ちがいますよ。

この作品は、突然メールでオファーいただいたもので、雑誌テックWinでゲームの連載企画をするというものです。
連載は4回で、ぼくは2000を使ってARPGを作ることにしました。
これは本当に、大変でした。

作り始める段階で出来上がっているのは概要くらい。
毎月毎月、シナリオを詰めて必要なグラフィックを描き、システムを作って組み上げていかなければなりません。
ぼくの絵では商業作品としてもたないので、別途編集部でイラストレーターの方を紹介してもらい、編集部経由で発注しました。発注にあたってはぼくが絵を描き、それをスキャナーで取り込んで送り、同じ構図で描き直してもらうという流れです。
今のようにスマホで軽く送れる時代ではありません。画像1枚送るのも大変でした。
また音楽は名乗りを上げてくれた安本くんに依頼をしました。彼は後に『マリハバの詩』などを発表します。かなりの熱量でとても助かりました。

で、ですね。
ぼくはずっと受賞を目標にやってきて、今までお話ししたように無理をする作品作りで良くも悪くも目立ってきたんです。
残念ながら急に堅実な作品作りなんてできません
つまり今回も無理をしたわけです。
システムは今まで見たことないような特殊なもので、ボス戦の戦闘方法も毎回変わります。ツクールの能力的にも並列イベントの山で、その管理だけでも相当なもの。
結果としては、評価は多分今一つで、嬉しい感想もたくさんいただきましたけど、例によって2chでも貶し放題だったようです。

最初の号の表紙はもはや伝説となった
「バーチャル美少女ハァハァ祭り」

あ、そうそう、この時並列イベントを多用すると処理落ちが激しくて、偶然にも「イベントの中に1か所0.0秒のウェイトを入れると軽くなる」ことを発見しましたね。尾島くんに報告しても何でそうなるのかははっきり分からないという。

最後のコンパク

多分その直後だと思いますけど、コンパクが終わるという話になりました。
結構悩んでたのですが、最後だから何か出そう!と思い立ったのは締め切りの半月前。14日という超短期間で落ちモノパズルを作って応募しました。
これは2000で作っていますが、史上初の2人同時対戦ができるんです。
無理してますね~!
こちらもなんとか受賞し、最後に結果を残せてよかったなと思います。

最終的に、ここまでで
Aコン・エビコン3回受賞
コンパク3回受賞
をすることができました!

でも、ですね・・・

崩れ去る日々

最多受賞歴、多くのツクラーが名前を知ってるポータルサイトの管理人。

実に輝かしいようですが、大きなツケが回ってきます。
それは「面白いゲームを残せなかった」ということです。
人気ランキングなどにはまったく引っかからないし、作品を検索しても情報はほとんど出てきません。それはつまり、誰も注目していないということです。

すべてのコンテストが終わった後、ぼくには何も残っていませんでした。文字通りすべてを投げうって連載に取り組みましたが、後にはゲーム制作者として実績と呼べるほどのものもなく、アンチの増加や生活の問題などからポータルサイトもやめました。
2chでは人格批判も少なくなく、受賞という結果とゲーム自体の評価ギャップ、コンテストが無くなったということからの迷走、そしてツクールの高機能化による無理できないことの寂しさ・・・。
様々な理由で人間的に終わっていきました。

その後は仕事を転々とする生活が数年続きます。
住む家も安定せず、なんとか生きているという状態。
このとき20代中盤ですが、今までの人生で最底辺の時期だったと思います。

ちなみにこの頃2chでは「発達(障害)」「アスペ」などとよく言われたものですが、最近になって発達障害(ADHDとASD)の診断が下りていて、実は的を射ていたんだなぁと感心したり、もっと若い頃に知っていればこんなに転落しなかったのにと思ったり。

そうして、ゲーム制作はすっかりやめてしまいました・・・。

ツクールとぼくの半生

27歳頃になるとWebサイトを作ることが楽しくなってきていました。
もともと何年もポータルサイトを運営してきて、技術だけはありました。
Web制作はツクール時代にポータルサイトをやっていたからこそ、すぐに身に付いたスキルであり、それは大いにぼくの人生に役立ってくれました。
地元の有力企業でWeb制作者として実績を重ねていった後に独立し、以降15年に渡ってWeb制作業を続けています。

Web制作はゲーム制作と似ています。
企画を立て、システムを考え、ビジュアルデザインを行ったり、時にはサウンドを作ったりして1つのものを組み上げていきます。
ぼくはそのすべてをひとりで行っています。
そう、最初のゲームを作った時と同じ。
ひとりで全てのものを作り上げて発表し、コンテストではないけれど、クライアントに評価してもらう。

’90年に出会ったRPGツクール三昧の人生は、30年経った今でもぼくに生きる力を与え続けてくれています。

ありがとう。
そして さよなら、すべてのRPGツクール。

改めまして、なおです

ぼくのことが最初で分かったという人も、いまでも分からないという人も。
ぼくの輝かしい記録を貼っておくので時間の許す限り見ろください。

最初の作品『風薫るとき』の紹介記事。小さい・・
でも別のページでも褒められた
2作目『fantasia』のコンパク受賞画面
作者のコメントが痛すぎるけどこれくらいでいいのだ
組織名で応募しているけど一人で作っています
当時運用していた『ツクールの森』トップページ
インターネットアーカイブなので画像がないところもあります。
おや?夢幻台さんのお名前も・・・?
3作目『レドナント破邪記』の画面
4作目『Shift!』の画面。凝ってますよ?
5作目『千年紀の少女』序章の誌面
ゲーム完成から校了まで数日なのにこの誌面が出来上がる!
300パターン以上ある主人公アイラのアニメーション
『千年紀の少女』第1章
『千年紀の少女』第2章
このあたりで第1作『風薫るとき』とリンクしてきます。
『千年紀の少女』第3章(完結)
『レドナント破邪記』のキャラも登場。
エンディングでは歌も!残念ながらぼくは歌っていません。残念でしょ?

『千年紀の少女』のエンディングテーマにはちょっと工夫がありまして、そのまま入れるとファイルサイズが大きすぎるのです。
そこで2倍速にしたデータを使い、再生時に1/2速で再生しています。
これに限らず、コンパク時代も容量との戦いは結構ありました。

テックWin誌のぼくのインタビュー
メールでやりとりしました
「ゲームはあまりやらない」と言っているあたり、ひねくれています
6作目『shift -fall in trance-』
Shift!のルールを元にした落ちモノ
コンフィグや、ハイスコアを取るとクレジット入力もある

じつはこの後に、Xbox360のインディーズゲームストア開設イベントで、未完成のアクションゲームツクールを使いながらローンチタイトルを作るという依頼も受けています。
あの時は大変でしたねぇ、ゆわかさん

Xbox360作品『LIVELAYER prototype』
うまくすればうまくいくかもしれない
PlainSoft制作『新・マリハバの詩』では
キャラクターグラフィックと主題歌の作詞を担当
BayGameCreation制作『Argus』ではマップグラフィックを担当

おわりに

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!

最初に『元』ツクラーといいましたが、この30年の間ツクールを辞めてしまったという認識はありません。
それは途中で述べたように、良い作品を残せていないという後悔がずっとあるからです。
受賞などと言う経歴はどんどん風化して、もはや誰もかつてのコンテストのことなんて覚えていないと言っても過言ではない今。
それでも、当時の優れた作品たちはちょっと検索すればワラワラと出てきます。つまりツクールの歴史に残っているわけです。

当時からずっと現役で作り続けている人たち、物凄いことだと思っていますし、『コープスパーティ』の祁答院さんのようにメジャーに成功するのも物凄いことで、すでに歴史の闇に消えかけているぼくのようなミジンコとは天地の差です。
だから、それは嫌なのです。
せめて誰かの記憶に残る作品を残したい。誹謗中傷ではなくて、「こんな面白いゲームが作れるんだ」と思ってもらいたい。
その想いはこの20年消えたことがありません。

と言いながらも20年何もしてないことは秘密🤫

まあ、ツクールを続けていれば、またどこかでお会いすると思います。
その時は、どうぞよろしくお願いします。

おわり




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