少しだけ待ってて。


私を唯一愛していてくれていた筈の人が、突然居なくなった。
故意に自分を殺めた。
その事実を知った時、私は、思い出す限りの愛してるという言葉も柔らかい笑顔も少し小さな声も、その全てが急に気持ち悪く感じられた。
私は嘔吐した。
全てが嘘だった。
だって、私を愛しているのに、自ら命を絶つ訳がない。
不思議と、悲しみは襲ってこなかった。
私は、部屋にあるあの人の痕跡を全て消そうと試みた。
全てを捨てた筈なのに、私は一冊の本だけは捨てる事が出来なかった。ゴミ袋に入れようとすると、何か不思議な力で押し返されるような心持ちがした。
この小説は、よく出来てる。構成が素晴らしいな。本当に衝撃を受けたよ…
そう嬉しそうに語るあの人のいつかの姿を思い出して、また苦しくなる。
私はその本をいくら語られても興味が湧かなかった。
読んでみてよ。
何回か言われたけど、その度にはぐらかした。
息が苦しい。
呼吸ってどんなにやるんだっけ。
死にかけの鯉みたいに口をパクパクさせる。
窓からは、小春日和の心地よい風が入ってくるのに、この空間は、ヘドロのように淀んでいた。
私には、あの人だけだった。
私は私なりに生きていたつもりだったのに、周りは私を避けた。普通じゃないって。
普通って何。誰も教えてはくれなかった。
貴方は、貴方の思う普通で生きればいい。貴方は何も間違っていない。
あの人だけはそう言ってくれた。
私が変な事を言っても、いつも受け入れてくれた。集団から弾き出された欠陥品は、もう捨てられるだけの運命だと思っていたのに、それを拾ってくれたから、私は生きていられたのに。
ああ、全部綺麗事だったんだ、本心じゃなかったんだ、な。
私も死んじゃえばいいのかな。
どうせ社会には必要のない人間なのだから。
そういう結論に至った時、捨てれずにいた小説から、何かが零れ落ちた。
読んでください。
そう書かれたくしゃくしゃのメモ。
うるさいな。しつこい。
私は夢中で読んだ。普遍的な愛を描いていた。
これの何がそんなに衝撃だったのだろう。本を読む習慣のない私には分からなかった。
悲しいから死ぬんじゃなくて、今が最高に幸せだから、幸せなまま人生を終えたいの。
そう言って主人公が自死する。
勿論、こんなのは間違っている。後に残された人の事をまるで考えていない。相手の事を本当に想っているのなら、そんな選択など出来ない筈だ。
苛立ちさえ覚えた。もしかして、あの人はこの主人公に倣って死んだのか。
そう思った最後のページに、もう一枚のメモがあった。
主人公の決断は嫌いだ。だけど、何故心の底から間違っているとは思えないのだろう?周りの事をまるで見れていないのに、何故彼女の考えに惹き付けられるのだろう?僕は、少し旅に出る事にします。申し訳ないと思います。
幸せって何だと思いますか?貴方は僕といて幸せでしたか?貴方は、本当に幸せだと思えるまで、生きていて下さい。我儘を言ってごめんなさい。僕は幸せでした。嘘じゃないです。
馬鹿だな、そう思った。幸せだったよ。馬鹿だな。幸せだったのかな?
貴方といたこの部屋を出る度、私は毎回息が詰まっていた。気持ちの悪い人間達の巣に自らどうして出向かなければいけないのだろう。貴方にそう愚痴を零す度、何も言わずに頭を撫でてくれた。生きる為には、働かなくてはいけなかった。仕方ないから、巣に行った。
帰ると、あの人がいるから、そう思うと何でも頑張れた。
私はあの人を愛していたのではなくて、私を癒してくれる都合のいい機械のように扱っていたのか?
馬鹿だった。あの人も私も。
こんなちっぽけな街の中で、全てを知ったつもりでいた。
私は、その小説もメモも、全て捨てた。
あの人の痕跡を今度こそ抹消した。
考えた。だけど、排水口が詰まったように堰き止められた。排水口を堰き止めたカスは、捨てられないあの人との思い出。
私は結局何も捨てられなかった。
私は、やっぱり素晴らしく幸せな人生を送った。私は、貴方と居てやっぱり心の底から幸せだったと思えるのよ。
だから、




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