悪夢と現実と、(後)

男が、ゆっくりと近付いてくる。
私は、跳ね上がる心臓を抑えつけながらゆっくりと後ずさる。
そうすると、突き当たりに当たった。
男は、ナイフを突きつけながら止まった。

「何ですか…何がしたいんですか…。」

「どこかで会ったことがあるか……その疑問にお答えしましょうか。」

「え……?」

男はあくまで表情もなく、瞬きすらしなかった。

「…私の母は、私が小学2年生の時に…自殺しました。
何故だか分かりますか?」

私は何も答えなかった。

「私の父が、母の親友と不倫していたんですよ。20年来の親友と。信頼していた親友と、愛していた父の両方に裏切られたショックから。」

淡々と述べる。

「そして、父は私を捨てました。私は高校卒業までは祖父母の家に引き取られました。一方、父は不倫相手と再婚、子供を設けたようです。
…さて、問題です。私の父とその不倫相手とは、一体誰でしょう?」

男はニヤリと不気味な笑みを湛えた。
私は皆目見当もつかず、ただ首を傾げた。

「…これがねぇ、結構残酷な話なんですよ…答えを言いますね。」

男は一拍置いて、しかし、調子は変わらず言った。

「南川俊明と澤田優子」

「え………?」 

私は固まった。そうして混乱した。彼は何を言っているのか。

「聞き覚えありますよねぇ…この名前。
そう…貴方の父と母ですよ。」

彼は、何を、言っているのか。

「信じられないですよねぇ…でも事実なんですよ。信じられないなら、保険証でも見せましょうか?」 

男はポケットに手を突っ込んだ。財布を取り出し、保険証を見せた。
男の名は、「南川佑太」とある。 
私はもう、何も考えられなくなった。只、口をあんぐりと開けるのみである。  

「まあ、佐藤とか鈴木とかなら、これでも信じてもらえないかもしれないですが、「南川」じゃあねぇ…凄く珍しい訳じゃないにしても、そんじょそこらにいる訳じゃない。」

「……。」

「続きを話しますね。私は高校卒業後、大学を経て今の会社に入りました。
貴方は覚えていないでしょうが、去年のことですよ。貴方は道端で何かの拍子に財布を落とした。貴方は気付かなかった。拾おうとした時、貴方の免許証が出てしまった。それで貴方の名前を見てしまった。その時は偶然だと思ったんですよ。」

男と初めて会ったのはこの時だったのか。
はっきりと覚えてはいないが、言われてみれば財布を拾ってくれた、そんなことがあったような気がする。

「でも、顔を見て分かったんです。
話は前後しますが、私は20歳の時、長年会っていなかった父に久しぶりに会いました。その時私は、(腹違いの)妹の顔を見せてくれと言ったんです。その時見せてもらった写真の顔の面影が、しっかりと残っていた。私は確信しました。私はその後貴方の後をこっそりつけて、貴方があの会社に勤めていることを知った。今年になって貴方の会社にたまたま商談に行くことになり、そこからは現在に至ります。」 

男は、ここで話に区切りをつけた。
私は声を振り絞った。

「……復讐ですか?復讐がしたいんですか?」

私は男の目を真っ直ぐ見て言った。
男が少し動揺しているのが分かる。

「…そんなことして何になるんですか?それで貴方は報われるのですか…?」

男は震えながら、ナイフを持つ手を下げた。

「………正直、そうするつもりでした……。」

男の声に初めて感情がこもった。

「……貴方を殺して、貴方の父と母も殺して。そうすればどんなに晴れた気持ちになれるだろうと。」

男はゆっくりと崩れ落ちた。
私は、最早恐怖の情は無くなり、ただただ男を見下ろした。

「…そんな事しても、本当の幸せは手に入らない……そうですよね。俺は、もう不幸にはなりたくない……」

初めて、男は「俺」と言った。
彼もまた、周りと何ら変わらない人間だ。

「すいません。もうこんな事はしない。誓います…」

男はゆっくりと立ち上がった。

「忘れて下さい。全て忘れて下さい……もう貴方の前には現れませんから。」

「運命ってなんでしょうね…」

そう言うと、「ちょっと…」という私の制止の言葉も聞かず、一瞬にしていなくなってしまった。
最後にこちらを見た顔は、大雨が降っていたあの夢での顔とまるで同じだった。


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それから半年。
男は夢に出てくることはなくなり、私の前に姿を現すことも無かった。
両親とは、その話をしていない為、特に関係性は変わっていないが、大好きだった父母を、以前のようには見れなくなった。

不思議と、私は彼にもう一度会いたい気持ちがあった。
会ってもっとちゃんと話がしたい、と。


そう願っていた頃、私はいつもの歩道橋で、あの背中を見た。

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