「当たり前」に光をあてたら
今日、息子とYouTubeの話題になり。「自由な校風」を謳ってる、とある高校の紹介動画の話を聞いた。
なんでも、先生の机の上にのって「こんなに自由なんだよー」を主張してる動画も含むらしい。
「ホントに自由な人は自由を望まないよね」という一言で話題をぶった切ってしまったけれど(笑)
口にしてフト思った。
「スキ」が分かってる人はあえて「スキ」について語るまでもないし
すでに「幸せ」を感じてる人は「幸せ」についてあれこれ考えたりもしないのかも、と。
「ママはどんな本がスキなの?」と聞かれたことがある。
わたしは「人間とは?」「幸せに生きるとは?」みたいな哲学的なものや「心と体の健康」をテーマにした心理学、自然科学みたいな分野、あとは何でもない日常をその人らしい視点で切り取ったようなエッセイや物語もスキ。
よりよく生きることで自己成長にもつなげたいし、ふだん暮らしの中にホッと一息つけるスペースみたいなものを本に見出してるのだとも思う。
そんなわたしなりの思いをまじめに語ってみたが、息子からしたら「⁈」な世界だったらしい。
もうすでに人間なんだから「人間とは」なんていちいち考えるまでもなくない?
うん、まぁそうだね(汗)。その若さで「幸せとは」を考えないくらいのほうが実は健康なのかもしれない。
それはそれでいいのだ。そして、この子の「今」はとても満ち足りてるのかもしれない、とも思った。
「幸せ」な人は「生きるイミ」を見出す理由がない。スキをあえて探すまでもなく、あまりに自然にスキを感じて心と体でナチュラルに反応しているのだろう。気づいたら「スキ」を「して」いるみたいに。
わたしもそんな時代があったのだよな。そして、みんなのなかにもそれはある。
なぜ大人になるにつれて「スキ」に蓋をしたり、諦めたりしてしまうのだろう。
そんなことをしてるうちに、ほんとに「スキ」なことがわからなくなってくる。本音とたてまえを上手に演じるあまりに、何がなんだか…とごっちゃになったりするのだろうか。
わたしが自然に惹かれるのは、それがあまりに「自然」だから。
植物ってひたむきに太陽に向かって背丈を伸ばしていく。そのイミも目的も求めずに。
ただ「そうである」というだけのことがこんなにも心を打つなんて。美しく尊いお姿である。
古来の人が、自然の姿に神を見出したのも自然な成り行きなのかもしれない。
人間だって自然の一部。失われてしまったかもしれない「自然」は何回でも自分の中に見出してあげればいい。
それははじめから「なかった」のではない。
帰りがけにみた月は昨日の満月より少しだけ欠けていた。でも、月はちゃんとまんまるのまま存在してるのだ。
「なくなった」と思ってる大いなる勘違いを、ゆるりとほどいていきたい。自分にも。誰かにも。