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儚い、拙い日々をねぎらいながら

徒然なるままに。

うっかり記念日

夏休みは子どものお昼ごはんを用意する。のに、うっかり夫が休みだと思いこみ、何も準備しないまま仕事へ出かけてしまった。夕飯の準備も今日はしなくて大丈夫だわと余裕をかましていたら家に息子しかいなかった月曜日の夕方。お昼ごはんはわたしのポカに気づいた夫がお小遣いを渡していったらしい。なんだか息子に可哀想なことをしたような気分になる。「虐待だー」と冗談めかしてるけど、好きなお弁当をコンビニで買えたことが嬉しかったみたい。よかった。にしても、これは母としてダメだろ、と猛省する。

失われた塩気を求めて

このところ焼きプリンを好んで食していたところに、タルト、シュークリーム、メロン、クロワッサン…とハイカロリー(そして大好きなスイーツたちよ)なプレゼントが続いた。出されたものは喜んでいただきます。それぞれが美味。そして胃と舌が甘ったるさでふやけてる感覚。こんな時は塩気だ!とばかりに帰宅して早々梅干しをパクリ。酸性に傾いていた体がアルカリ性で中和されてる(気分)。これで体内のバランスは取れたよ、健康だよ、と思いたい反面、両極端な食物を摂取してると真ん中に戻すための距離が大きくなるから体にはやっぱり好ましくないよな、と思う。

その出来なさが見ていてしんどい

そろそろ息子の宿題の終わり具合が気になるところ。お世話になっている中学校は二期生。夏休みが明けて2週間後には期末試験も待っている。宿題を終わらせるのは序の口で、余った時間でテスト勉強する!という計画は何処へ??困るのは本人なのだが、本人以上に将来を心配したり無謀な期待をしたりしてしまう親ってもんはホントにしょうもないですね(笑)。自分だって勉強は好きじゃなかったし、やっつけで終わらせてたじゃん!って思うのに、自分のできなさ加減を子供に補ってもらって「できてる感」を装う戦術。なんと浅はかな、愚かしいことよ。

青年の主張、的な。

宿題も佳境。大モノの弁論大会に向けての原稿作りを見守る。いや、見守りたいけど意見を聞いてくる。意見を言うと眉をひそめられる。その表情にイラッとする。なんだ!この負の連鎖は。休みの日くらい、わたしだってのんびりしたいのにぃ。。。。。。とはいえ。弁論というくらいだから主張したいテーマを選んでるわけだし、彼なりに言いたいことがある。ただ、頭の中がこんがらがってどこから手をつけたらいいかわからないみたい。「なんでそれをテーマにしたの?」「それを推したい理由は?」「それができないと自分はどんな気持ちになる?」「逆にそれができるとどうしていいの?」質問するとそれなりに返ってくる。それを書けばいいじゃないのさ。最初の書き出し+結論を決める→中間には結論に至った背景、実体験、例などをかいてみたら?なんとか濃密な3時間を終えて。わたしはほっとする。すぐに彼は遊びに出かけた。

「わたしの時間」を定義してみる

宿題に付き合っていて少し疲れてしまった(いや、だいぶ)。無論、実際に書いているのはわたしではないが、それなりに文章の構成や前後関係なども考慮するので頭だって使う。読書したかったのにできなかったなぁという落胆の思いも少し。こんなとき、人は思う。わたしの時間が使われたよ、と。でも、そもそも時間なんて便宜的に人間が作ったものだし、いわゆる時間も空間も本来はないんだよ説に照らし合わせるならば時間が奪われた、なんておかしな話だ。しかも「わたしの」って言ってる「わたし」の存在だって実は定義が曖昧。「わたしの」「時間」「使われた」。この3つのワードのどこにも真実が見つからない。むしろ、交わされてる日々の言葉は虚構にまみれている。じゃぁ、信じなくていい。そう思ってしまったことも、そう思ってしまった自分も流して、また新しい瞬間瞬間を迎え入れていこう。今日は天丼が食べたい、と言っていた息子。ちゃんと用意しておくよ。美味しく頂こうではないか。今日はおつかれさま。


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