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他人の悪口は言わない方がいい気がする

 悪口、叩き、批判その他これに類するものが好きじゃない。大抵は言う側の都合しか考えられていないから。批判がされる時は「批判されるのも当然」とでもいうような言い方がされる。「あれがダメ」、「これがダメ」みたいに。因果関係を作って理論的に見せているがまったく理論になってないことばかりで、嫌いたいから嫌ってるのに理由を勝手につけているように見える。身近で「メディアが悪い」と簡単に言う人は「メディアで働く」ことを知らないし「教育が悪い」と言う人は少ない知識で教育の全てがわかってるように振る舞う。「文系学問はいらない」という人は単一的な評価軸だけで文系学問について深く知っている場合は少ないし、「政府が悪い」という人に「予算」「負担」の観点が抜けているケースは多い。本当にそこに携わる人がイメージできた上で言ってる?と思う。別に言うのは勝手にすればいいし詳しくなければ意見を言っちゃいけないとは思わないがそこの視点は必要な気がする。「叩かれても仕方ない」ような「悪い」ことを「完全に悪い」と理解して行っている人はそう多くない。それは社会のためにと考えてかもしれないし家族のためかも仲間のためかもしれない。理由なく「悪い」ことをする人がどこまでいると思っているのか。それが見えた上で「叩いて」いるのか。


 ある一枚の写真を見た。3.11の東日本大震災直後の避難所になった体育館で東京電力の社員数名が土下座をして謝っている写真。とても抵抗があった。その写真が撮られた直後どうなったか想像することはできないが、東京電力を叩き、東京電力の人が謝り、それでも批判は止まらないといった構図が世間にあると認識している。この人たちが何をしたというのか。爆発させようと思ってやったと思ってるのか原発は危険で無くした方がいいと思っていながら勤めていたと思っているのか知らないが学んでいる限りそんなことは全くない。社会のために日本のためにはたまた家族のために働いていたのだと思う。「原発が安全だと思い込んで」という表現は正確に表していない。それが「普通」で「当たり前」の日常だったはずだ。東京電力が、政府が、全く悪くないとは言わない。責めたくなるのもある種当然であり影響を受けた人なら尚更だと思う。だが「個人」にフォーカスするなら地位に関わらず「100%悪い」なんてあり得ない。強いて言うなら世間も含めて全員が「悪く」て全員が「悪くない」。この人たちが土下座をする必要はない、だけど土下座して詫びたいと思うのもわかる、この人たちを責めても仕方ない、だけど責めないと感情がおさまらない。そんな空気があの写真にはあった。

評価、比較するには「軸」がいる。しかもその「軸」はいくらでも作れる。個々の関係においても主語の大きい言説でも一つの軸で「仮に」劣っていたとして全ての軸で劣っているとは限らないしそんなことはほとんどない。ある対象を悪く言うなら自分も、また自分の所属するコミュニティ、分野を悪く言われることを認める必要がある。そんな勇気はない。私はそれらを悪く言われたら「何も知らないくせに」「お前も・・・」と返したくなるだろう。まあそういうことなんだと思う。主語が大きい場合にも個々の関係においても、「同情」の視点は必要な気がする。批判の矢面に立つきっかけとなる行為やそれを責める人を「擁護する」わけではない。だけど責められる人にも、また、責める人にも「同情」はする。次に矢面に立つのは自分かもしれないし、あなたもあなたの親戚もスポットライトの当たりにくいあの人も私や家族、友人となんら変わらない「人間」なのだから。

P.S. 「寛容のパラドックス」的な感じ。「権利を主張することは必要である」とか、「より良い社会のために監視が必要」とか「そもそもこの主張も相手が見えてない」とか思う人はいるのかもしれない。一つずついくと、権利の主張は否定していない。むしろ必須というか絶対するべき。ただやり方があるということ。「監視が必要」と言う主張には2〜3割程度賛成する。最後の主張については自分でも思う。批判をするという手段を取る人を理解できてないことは否定しきれない。そこに関しては、この考えに至ったきっかけとして大学で急に新たなインプットが増えて「あれが悪い」、「これが問題だ」と「本当に悪いのか」の狭間で一度パンクしたことが挙げられるのでそんなバックグラウンドを踏まえた上で「同情」して「言うのは勝手」の精神で見ていただけると助かる。

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