甲子園の交流試合が終わって

 今日で交流試合が終わってしまった。選抜出場が決まった後で大会が中止になり、さらには夏の全国大会もなくなり、甲子園を目指してきた人たちは無念だったと思うけれど、交流試合という粋な計らいはその思いを少しは和らげたのではないだろうか。

 ところで、私は無類の野球好きである。特に高校野球には昔から目がない。そのせいで高校の頃、野球部のマネージャーにもなったくらいである。あまりにも勉強の時間がなかったことと、監督から理不尽に怒鳴られたことをきっかけに、マネージャーは1年と少しでやめたが、それでも野球好きには変わりはない。しかし、こんな私でも、各校一試合ずつのこの交流戦に対し、物足りなさなどは全く感じなかった。全国の高校野球ファンからは殴られそうだが、「このくらいでよくない?」とも思った。もちろん、選手が試合ごとに成長していく姿や、前評判のいい選手を何試合も見られる楽しさや、優勝という大きな目標に進んでいく姿を見られないことは残念かもしれない。しかしそれ以上に、猛暑の中、連投で体に負担をかけたり、練習のしすぎで故障したり、ということが減らせる、応援団もなく、純粋に野球だけを満喫できる、というのは決して悪くなかった。(これは断じて応援団をけなしているのではない、ということは次に述べる。)

 数年前、秀岳館高校が勝ち進んだときに、全国大会出場を決めていた吹奏楽部が野球部の応援のため、自分たちの大会を辞退する、ということがあった。新聞ではどちらかというと美談として取り上げられていたのだが、私はこのニュースを聞いた時、たまったもんじゃない、と思った。吹奏楽部員には自分たちの夢があったことだろう。それを他の部活の応援のために犠牲にするというのは、あまりにももったいないのでは、という気がしたのである。これについては職場に吹奏楽部出身の人がいたので意見を聞いてみたが、その人は「絶対出場辞退なんてしたくない」と言い切っていた。これも人それぞれなので、何が正しいというわけでもないし、全員が甲子園に行きたいと思っての決断かもしれないのだが、私はやはり自分の夢を優先する方が好きなのである。それに、部活動、という点では野球も吹奏楽も、それぞれ重みは同じだろうとも思った。

 選抜が中止になった時、ただただ残念だった。けれど新聞に「他のさまざまな大会がことごとく中止になっている中、野球だけが行われることになると、それは一つのスポーツだけが『部活動』の範囲を超えることになる」というような記事があって、深く納得した。身体を壊さず、技術を伸ばす、楽しむ、バランスのいい高校生活を送る、というのも大切なことで、コロナ禍により、ある意味いびつな部活動の形が浮き彫りになり、無理の少ない状態に近づいたのではないか、という気もする。事実、『Number』の記事によれば、自粛により球速が上がったり、体が大きくなったりした球児もいたらしい。ある程度ゆっくり休むことができ、的確なトレーニングをしたことで、身体能力が伸ばせたとしたら、それは効率よくめでたいことではないか。

 多分コロナが収まったら大会は元どおりになるだろう。けれど、すっかり元のまま、というのではなく、無理せず強くなる、という方法がもっと模索されたら、選手も監督も周囲も、みんなハッピーなのではないか、と思う。

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