ツーブロック禁止の謎

 つい先日、東京都の高校でツーブロックが禁止されている理由について、都議が質問をしたところ、教育長が「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」という謎の答弁をして話題になった。(https://news.yahoo.co.jp/articles/e7f21f1dc0c9264bed1170605310d7bbb40c63b4?page=1)

 そもそも、理由のない校則は全て不要だと私は思っているが、興味深かったのは、このことについての憲法学者木村草太氏のツイートと、それに対するリプライである。木村氏は「学校側に髪型強制権限や罰則制定権限はないから、要するに、「校則」という名前の文書や発話を無視すればよいはず。でもって、強要とか、しつこい指導と言う名の発話が続く場合は、教員によるハラスメント・不適切指導として処理すれば問題は解決するはず。」とツイートしていて、明快でわかりやすかった(https://twitter.com/SotaKimura/status/1283182152910163968)。私はこのツイートを頭にとどめ、もしも我が身(というのは娘と息子だが)に降りかかることがあった場合は参考にしようと考えた。不思議だったのはここについているリプライに、「内申書に影響する。 問題はそういうことではない。」とか「 理屈ではそうだけれど、それをするとよほど偏差値が高くて意識の高い系の高校でない限り仲間はずれになる。」とか「学校という閉鎖空間で生徒が声を上げることは難しい。  」とか「理論上はそうかもしれないが、現実離れしている。周りの友人や教員との関係もあるし、そんなに割り切って行動が出来る親子は少ない。」とか「高校は義務じゃないし、その校則を知って入ってきてるんだからそんな理論は崩壊する。 まぁ、なんでもハラスメントって言っとけばしいい時代だから。」というものがついていたことだ。

 校則に強制権がないなら、守る必要はない。それを無理やり守らされそうになった時は、おかしいと思えば声を上げればいい。おかしいとは思うけれど、声を上げる勇気がない、というなら黙って従っていればいい。それだけのことではないか。なのに「問題はそういうことではない」とか「理屈ではそうだけど難しい」とわざわざ言ってくるのはどういうことか。一番驚いたのは、「その校則を知って入ってきてる」という理屈だ。高校に入るのに、校則まで知っているということはなかろうし、もし知っていたとしても、知っていて入ってきた以上従わなくてはならない、という理屈が意味不明である。何が言いたいのだろうか。

 ということで、不思議な校則に対して声を上げようとしても、こういう理屈にならないことでごちゃごちゃ言ってくる人がいるんだな、ということに驚いたのと、おかしいことに声をあげないと、ブラックはブラックなままだし、変な校則は自分たちの手で変えられる、と知っていないと、将来えらく不利益を被るのではないか、と若者の将来が心配になった。さらに、ある古い事件を思い出した。

 その事件とは、1990年に神戸の県立高校で起こった「校門圧死事件」である。遅刻指導として男性教諭が閉めた鉄の門に頭を挟まれて死亡した、という事件で、これは「時間を守らせる」という目的が見失われ、「時間がきたから門を閉める。遅れてくる人間が悪い」というピントのずれた自己責任論の典型のような事件だった。その後この教諭は懲戒免職になり、業務上過失致死罪で有罪判決を受けたそうで、生ぬるく「兵庫県に対し」ではなく、閉めた教員が罪に問われたことはよかったと私は思うが、一人の女生徒が犠牲になるまで、誰も「時間がきたら、人がいようがなんだろうが門を閉める」という行為のおかしさに声を上げなかった、と言うのが恐ろしい。

 校則とはそもそも、心地よい学校を作るための決まりである。その目的から外れた妙な校則があるとしたら、それは校則が悪い。ところが、おかしな校則に対する対処の仕方を言ったら「でも内申書があるからできない」とその人に反論してくる。だったら黙って従っていればいいのだ。「でもできない」などと言われても、言われた方は知らんがな、ではなかろうか。ともかく、妙なきまりに対して、それが法的根拠のないものであっても従い続ける、文句を言ってもいいんですよと言われても、「でも言えないんです」と言って何も変えない、という妙な構造が続いているのだなと実感した次第である。


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