若者を指導するということ(その2)

 前回、漫画家の編集者AとBが、漫画家の卵さんに対して正反対のコメントをした、という話を書いた。https://note.com/nao114223/n/n912c3222b43c

 かいつまんで言うなら、経過を見てきてOKを出したAさんとは対照的に、初めて読んだBさんがけちょんけちょんに貶した、という話で、その批評が必ずしも的を射ているとは言い切れず、「それを言って作品の質が上がりますか?」とAさんは疑問を抱いたし、一種のハラスメントではないかと思った、という話である。

 昨日、酷評したBさんと職場で顔を合わせた。「卵さん、今描き直し中ですよ」と伝えたところ、Bさんは「最後はそんなにひどいことは言いませんから」という。「あれは一種のパフォーマンスだから」とのことだった。このことは、面談後の会議でも言われていたので、この人はそういう人なのだが、私はこのスタンスには強くNO!を唱えたい。貶さないと慢心して努力を怠るから貶しておく、というのは全く無意味な指導である。貶すなら、その根拠を示し、こういう風に改善することでこういう効果が得られる、まで見せなくてはならないのではないか。(そこまでしたとしても、結局は取捨選択なので、その提案を卵ちゃんが呑まないことはもちろんありうるし、それはそれでアリだ。漫画は卵ちゃんの作品だからである。)

 もう一つ、Bさんと話していて強い違和感を覚えたことがある。卵ちゃんが与える印象についてだ。

 酷評のあと卵ちゃんと話していたところ、卵ちゃんは「私、不真面目に見えるんですよ」と言う。「だから、ちゃんとしてないって思われたんじゃないですかね」とのことだった。言われてみれば卵ちゃんは割とイケイケ(死語?)に見えないこともない。けれど、独特の頭の回転のよさ、勘どころのよさのようなものがあり、私はそこは高く評価している。卵ちゃんのその言葉を聞いたとき、私は自分の評価を卵ちゃんに言ったし、さらに編集者仲間(ということにしておく)で卵ちゃんを認めている人がいるので、その人の言葉も伝えた。卵ちゃんは、真正面から「きゃー、ほんとですか!嬉しい!」などということはもちろん言わず(そういうキャラではない)、「えー、その言葉、メモしときますー」と、音階で言うと「ミ」くらいのテンションで言った。そういう人なのだ。

 話を戻そう。Bさんとの会話の流れで、私はBさんに「卵ちゃんは、他人から不真面目に見られることが多いって言ってましたねー」と伝えた(だから必要以上に酷評された、とかいう話には持っていっていない)。すると、Bさんは一言、「ああ、見えますね」と断言したのだ。そして、「不真面目に見える以上、自分でそこは改善しないと損をする」と言う。これには「???」であった。卵ちゃんを不真面目に見るのは、その人の眼力のなさである。見る目のない人の印象を変えるために、なぜ本人が努力しなくてはならないのか?

 私は、外見やふるまいに関係なく、「その人の強み」を見つけるのが割と得意である。(それを家で言うと、「自分の子にもそうしなさいよ」と毒舌の母に言われるのだが、それはしているつもりだ。)そして、その強みを評価していると、そちらの方向に人は進んでいく、というのも知っている。一般的な「こうあるべき」 にその人を当てはめるのではなく、「その人の強み」を発揮していけばいい、というのが私の考えである。なぜこう考えるようになったかをつらつら思い起こしてみると、人生で数えきれないほど「ピントのずれたアドバイス」をされてきたからだと思う。小学校では「もっとハキハキと」(いや、こういう性格なんで)、中学校では「もっとクラスを引っ張って」(なんでクラスの責任を一人が負わなくてはならないのか)、高校・大学ではその手のくだらないことはあまり言われたことがないが、習い事で知り合ったOLさんから服装をダメ出しされたし、他にも外見のことで散々ごちゃごちゃ言われたりした。社会に出てからは、「恐い人と思ってたけど気さくだった」とわけのわからないことを言われたこともある。「恐い人」と思うのは、その人の眼力のなさだ。それをわざわざこちらに伝えてきて(恐い人と言われて嬉しい人はいない)、何のつもりだろう、と真剣に思う。だから今でも、ずれたアドバイスをしてくる人が苦手だし、そういう人からは遠ざかるようにしている。

 というわけで、Bさんの本質は「規範を勝手に作って、それに合わないものは批判する」ということ、というのがいっそう明らかになった(もちろん知っていた)。とりあえず、こういう人にはならず、フラットな視線で物事を見られる人間でいたいなあと改めて思った次第である。

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