自己と非自己との境界

私は強迫性障害、いわゆる潔癖症というものだ。
ふと思ったのだ、この病気は非自己への恐怖が原因なのではないかと。

他人に触れられない、人が触れたものが触れない、汚いと感じてしまうと反芻して強迫観念を抑えるための行動を続けてしまう…。
そうして日常生活に支障をきたす病気が強迫性障害だ。一般に潔癖症と呼ばれるような、片付けなければ気がすまないとか、ちょっとした歪みを気にして物事を一向に進められないようなのも強迫性障害と一括りにされる。
この病気の問題は、汚い、嫌だ。と感じることではなくて、その感情を抑えるための行動がやめられなくなるところにある。
私の例であれば手洗いだ。ちょっとしたことでも手を洗わないと気がすまない。少しづつエスカレートして、スマホやペンまでも洗わないと気がすまなくなっていった。スマホに関しては落ち着いたが、ペンだけは未だに洗い続けている。
やめようという感情がわかないわけではない。むしろ、馬鹿げているからやめたいと思うのが強迫性障害の特徴である。
私はそこに、「非自己への恐怖」というものがあると考える。

「他人」に触られる、「他人」に見られる、「物」を信用できない…。当然これだけでなく、いろいろな原因や症状があるだろうが、大きなところはこれではないだろうか。「自分でないものが信じられない」のだ。
新しい物事をしようとするのに恐怖を感じることはないだろうか。きっとそれは、自分がしたことのないこと、つまり自分の経験や勘が頼れない状態に対する恐怖だろう。
強迫性障害というのは、そんな恐怖を非自己に抱き、安心のために強迫行為(手洗いや繰り返しの確認)をしてしまう状態のことなのだろう。
私の症状についてだが、自分なら常に手を洗っているから大丈夫だが、他人は手を洗わないから怖い。ということが多々ある。やはり、自分でないものを信頼するという行為が恐ろしいことなのだと感じる。結果として、他人に触れられたものを捨てたり、覆ったり、他のものと分けたりしてしまう。これは仲が良いとか悪いとか、家族だとか他人だとか、そんなことは全く関係のない話だ。

ただ、感じる恐ろしさというものを言語化するのは難しい。特に私は服薬での治療を始めていて、あとほんの数ヶ月で1年になる。今も感じているとはいえ、強く感じることは少なくなってしまった。それゆえ、言語化しようにもその元となる経験をする機会が減ってしまったのだ。
さらに、そんな苦しむ機会が減ったからか、自分の書く文章や頭に浮かんでくる物事が、どこか面白みのないものになりつつある。相変わらず読みにくい文章ではあるが。
そんなこんなで、私は強迫性障害ではあるが、どうにも昔のような感覚が思い出せなくなってしまった。逆に言えば、じっくりしっかりと投薬すれば落ち着かせることだってできるわけだ。
当然ながら服薬したからと言って必ず良くなるわけでもないし、強迫観念がすぐに落ち着くわけでもない。さらに、原因となっているものを受け入れることへの恐怖も当然あるだろう。

最近話題になる拒食症のように、治療したら太る(自分が嫌な状態になる)から治療がしたくない。という感じで、汚いと思っていたものが汚く見えなくなるとか、繰り返さなければ心配で仕方ないことを確認しなくなるというのが怖いということもきっとある。それは紛れもなく「非自己」を受け入れる行為であるからだ。
しかし、当事者たちも治したいと思っていることは間違いない。治療に関しては最後は自分との闘いということになってしまうのが悔しいが、強迫性障害というのはこういう一面もあるのだと知ってもらえると幸いだ。
わがままのように見えるし、当事者たちもできるかぎり隠したいと思っていることが多いが、強迫性障害はただのわがままではなく、ホルモンバランスが原因となるれっきとした病気であり、周囲の理解の上での治療が必要であることを理解していただく助けになれば嬉しい。

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