河口の港湾都市

日本海側には河口に位置する港湾都市がいくつかある。道路インフラが徒歩向けだった江戸時代には水運が物流の中心だった。基本的に全国各地の物資は都会に集められるものなので、各地の物資は川を下って河口で船に積み替えられる。特に日本海側は北前船に積み替えられて大阪京都へと運ばれていく。

河口の港湾都市の大きさは、河川の水系の面積と相関がある。本州の日本海側最大の都市である新潟は信濃川と阿賀野川の河口に位置し、長野県の北半分、新潟県の真ん中半分、福島県の西半分という広大な地域からの物資が新潟港に集まっていた。新潟の港は信濃川河口にあり、阿賀野川の河口と信濃川の河口とは水路でつながっている。鉄道は当初内陸水運を代替する目的で建設され、阿賀野川の水運を代替したのが岩越鉄道(今の磐越西線の西半分)、信濃川の水運を代替したのが北越鉄道(新潟から新津長岡を経て直江津まで)や新潟交通(白山前から燕)である。新潟におけるターミナルは当初は内陸水運の港にあったが、明治になって内陸水運が衰退するにつれ港湾の適地が移動し、それに合わせて鉄道のターミナルも目まぐるしく変遷していった。旅客輸送の比重が高まってくると、市街地のある新潟島へのアクセスが重視されるようになった。新潟の鉄道の歴史が複雑なのはそのためである。

酒田は最上川河口に位置する港湾都市で、山形県の大半が最上川水系である。秋田も雄物川河口に位置する港湾都市で、秋田県の南半分の物資が秋田に集まっていた。どちらも北前船の港だが、酒田港は大型船舶の接岸にはあまり適していないようで、今では秋田の港湾の方が大きい。

太平洋側では、江戸は利根川水系と荒川水系の河口である。多摩川の河口も江戸湾に注いでいるが、多摩川は江戸から離れているし、水系の面積もさほど広くない。太平洋沿岸の物資は銚子から利根川を遡上し、関宿で江戸川に向きを変え、内陸水運経由で江戸に運ばれていた。東京の北の貨物列車のターミナルである隅田川駅はこれらの内陸水運と接続する目的で建設された。北上川の河口は石巻である。仙台港は戦後になって作られた掘り込み式の港である。木曽川長良川揖斐川の河口は低湿地で港湾に適しておらず、代わりに都市として栄えたのは付近にある名古屋である。

和歌山は紀の川の河口にあり、紀の川水系は奈良県にまで及んでいるので、吉野の木材は紀の川で和歌山に運ばれていた。徳島は吉野川の河口だが、徳島という町は吉野川の三角州にできた城下町であり、水深が浅いことから港湾に適した立地ではなく、大型の汽船は小松島港を利用していた。徳島港は戦後になってからである。筑後川水系は大分県西部にまで及んでおり、このエリアは林業の盛んな地域だったので、日田や小国の木材が筑後川河口に集まった。大川が家具の街なのは木材の集積地だったからである。佐賀は港湾に不適な立地のため、筑後川下流の河港から搬出されたが、江戸時代に佐賀平野の干拓が進んだこともあり、水運が衰退した後は港としての面影が残っていない。

逆に、江戸時代から貿易港に指定されてた長崎や平戸は外国船の寄港に適した立地ではあるが、国内の物資の集まる場所ではない。同様に明治になってから開港した横浜も神戸も河口にはなく、国内の物資の集積地ではない。最初から輸出を意図していたなら物資の集積地である河口を開港場に指定しただろうが、当時は外国の影響をなるべく排除したかったのだろうか。その代わり東京から横浜へは全国で初めて鉄道が建設され、明治以降は内陸水運の時代から鉄道の時代へと移行していった。

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