【ワタクシゴト】苦手な広告との付き合い方が分からない話

あるいは「自分は反対意見であってもまずは相手の意見を受け止めよう」という風潮に概ね賛成してはいるが、受け止めて続けていたら最近疲れてしまった話

※注意
この文章はあくまで「広告」を媒介に、私の最近の心労を吐き出したいという個人的な欲求のままに書いたものです。私個人のネガティブな意見、誤った認識・見解等もあると思います。お手柔らかに読んでいただければと思います。

1、はじめに

突然ですが、広告ってすごいですよね。商品や興行物などを広く知らせ、人の関心を引きつける役割を担う広告は、私たちの意識あるいは無意識の中に入りこんでいます。知られるべき人に情報を伝え、潜在的な欲求を湧かせ、購買活動へ結びつけています。私もイベント運営のときにFacebookやInstagramなどを使って広報活動をしています。それにより、イベント企画時に想定したターゲットへ情報が届き、イベントを開催することができています。

私たちが無料でアプリケーションやサービスを使用することできているのは、ほとんどの場合、それらに広告主がいるからです。楽しくテレビ番組を観ることができるのは、スポンサーとなる会社が広告価値を期待して、テレビ局にお金を出しているからです。

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LINE 2019 Q1 Result
売り上げの55%が広告収入であるLINE社
https://scdn.line-apps.com/stf/linecorp/ja/ir/all/FY19Q2_earnings_release_072402JP.pdf )

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Facebook 2019 Q1 Result 
売り上げの98%が広告収入であるFacebook社
( https://s21.q4cdn.com/399680738/files/doc_financials/2019/Q1/Q1-2019-Earnings-Presentation.pdf )

だから「広告がなくなれ」なんて毛頭思っていません。自分にターゲティングされていて、それが私の欲求に的を得ていたら「教えてくれてありがとうございます、広告さま!」と思います。

だけど、シンプルに広告がストレスなときってありませんか。広告を見るときの心理的状況もそうですが、特に、自分の価値観や考えに反している広告が目に入ってきたとき、「うっ・・・」っとダメージを受けざるを得ないのです。

広告は時々、炎上という形でSNS上でも話題になることがあります。

ツイッターのタイムラインで上記の炎上ツイートを見たときは、私もこの広告に不快感を覚えました。たくさんの人が批判のつぶやきをして、これに関する複数の記事が書かれていました。

しかし、私はこの広告に対して声をあげることはありませんでした。できませんでした。批判を含めた私の考えをツイートをしようとして、文章に書いて、そのまま指先は「下書き」のボタンを押しました。

突然「この広告を書いたであろう出会ったことのない製作者」の存在を感じたのです。

この広告の製作者の方の作品は、結果的に批判されてしまいましたが、炎上を目的に作ったわけではないと、数年越しに話題となり炎上した経緯から考えて判断することができます。

広告ですから、依頼した会社の宣伝のために製作したのは大前提において、製作者の方は「どんな思いで、どんな気持ちで、何を期待して、作品を完成させるに至ったのだろうか」と想像したのです。

2、映画館で観る、映画の予告

例えば映画館に行って映画を観るとき、私たちは本編の前に予告編を観ます。ご存知の通り、あらゆるジャンルの映画の予告編が流れます。私はホラー映画や、グロテスクな描写のある映画が大の苦手なので、30秒の予告編でも強制的に見させられるのは「勘弁してくれ」と感じます。しかし、そういった映画が好きな人も多くいるはずです。私の場合、そういう類いの予告編が流れたときは「目を閉じる」という方法で回避します。単に、私が不快感を覚える予告編のターゲットは私じゃないのです。

ツイッターで不快なつぶやきを見たときの私の回避行為は「上にスワイプして次のツイッターを見る」です。これは、私の映画予告編の回避方法「目を閉じる」に相当していると思っています。

これらの回避行為は一種の無視行為です。人間関係において「好きの反対は嫌いではなく、無関心」と聞くことがあります。そこで、私がいつも思ってしまうのが広告においてこれは適応されるのかということです

個人的には自分の精神的健康を保つために、この無視行為は必須だと思っています。しかし、無視し続けるのも難しいことのように思えます。予告編は目を閉じても耳から情報が入ってきますし、ツイッターでは不快なつぶやきを見ない日の方が少ないです。

国や地域・SNSなど、私たちが所属する大小様々な世界では、たくさんの暗黙の了解と、世代や地域によって異なる一般常識と、個人差の激しいモラルによる見えも聞こえもしないルールが存在しています。

何かに従おうとすると、何かに反することになる。そんな日々に、葛藤を覚えます。

3、「多様性を認める」ってなに

大学に入る時期くらいから「多様性を認める」という言葉をよく聞くようになりました。

例えば、職場にいる外国人従業員の言葉に耳を傾ける。
例えば、LGBTQの方のより生きやすい社会を一緒に考える。
例えば、身体的・精神的に障がいを持つ人が暮らしやすい社会を実装する。

今まで声を上げることすらできなかった人々が、本人たち努力と周りの方々のサポートにより、徐々に理解されるようになってきました。「多様性を認める」というと、このようなトピックが真っ先に上がります。

ただ、ふと「多様性を認める」って何なのか、わからなくなるときがあります。

「多様性を認めない」という人を認める多様性は存在するのでしょうか。

「多様性を認める」と叫ぶ人、「多様性を認める」と唄う企業、「多様性を認める」と掲げる団体の元に生きるとき、私は「誰かが定めた多様性」の範囲内の多様性を認めているような気がします。

4、脱毛広告がシンドイ

「20代女子」というフィルターだけで、死ぬほどツイッターやインスタ、ウェブサイトで脱毛広告が流れてきます。あと、山手線のデジタル広告も。大手の脱毛サロン・医療機関はもちろん、胡散臭いサイトで紹介される自己処理用品まで。

そんなに全身ツルスベじゃないといけない!?
「美しい」「綺麗」の条件なの!?
脱毛って誰のためにやるの!?パートナーのため!?
Girls Powerって脱毛でそんなこと言うの!?

画一的な「美しい」という認識に対して問題意識が湧き上がります。女性の脱毛はルッキズム(外見至上主義)の一つの現れだと感じます。

とかなんとか堅いこと言っておいて、本音は私も「お金と時間さえあれば脱毛したい」と思っているのです。はぁ←

ルッキズム文化にねじ曲げられた価値観だとしても、私自身、毛がない身体の方が夏服を躊躇いなく着ることができるし、それすなわちオシャレが楽しく感じます。

(それも、毛が生えていることに対してバッシングされることのない世界だったら毛が生えていてもオシャレを楽しむ気持ちになれるのかもしれませんが。)

普段他人から見られることのないV・I・Oゾーンの脱毛に関しても「生理の不快感が減った」という声もありますし、いくらでも「自分のため」の理由をつけられます。

ただ、トータルで15〜20万かそれ以上の費用がかかり、自己処理が必要のない段階までは2、3年かかると言われています。

私も「Vライン・ワキ脱毛ワンコイン通い放題!」のような夏のキャンペーンに申し込んで行ってみたこともあるのですが、予約は取れないし、待ち時間や処置時間をトータルして1時間はかかるし「時間もったいな・・・」と思ってしまいました。(脱毛サロン比較であるコメントと同じことを言ってる・・・←)

それだけの費用がかかって時間もかかるなら、私は限られた学生という時間と機会を、海外旅行に行ったり、i Pad Proを買ったりと自己投資に使いたい、と脱毛の優先順位がどんどん下がっていきます。

はい、言い訳です。ルッキズムという盾の後ろで「脱毛しない理由」を並べて、脱毛広告がストレスフルだということを言いたいだけでした。

ただ、言い訳がましいことがわかっていても、それでも私は、7割のストレスと3割のルッキズムに対する批判の意味を込めて、SNSに現れる脱毛広告にいちいち「不適切な広告」と報告するのです。

5、Paters(ペイターズ)の広告にゲンナリ

ある日突然、私のインスタのストーリーにこんな広告が流れてきました。

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包み隠さず、最初に思ったことは「女子大生向けにこんな広告を流している日本って終わってる」でした。

ペイターズというのは「ワンランク上の上質な出会いを」とコピーをうった、男女のマッチングサービス。別名「パパ活マッチングアプリ」です。

もしかしたら、というか、かなりの確率で私の周りで一人くらい「自分じゃ行けないお店でディナーが食べたい」と思ってパパ活をしている人が(私たちはサービスのターゲット層なので)いるかもしれません。

「パパ活」そのものに対する議論(パパ活ってよく言った援助交際でしょ?援助交際じゃないなら線引きはなに?身体の関係があるかどうか?とか)はここでは置いておきます。パパ活をすること自体は、男性側も女性側も何か理由があるかもしれないし、ないかもしれないし、私が「良い」「悪い」と裁くことができることではないと思います。

(少なくとも、今の私の心情では、自分に娘がいたら娘にパパ活して欲しくないなと思います)

私はこれが「新しい男女の関係」と銘打って普通に広報されていることに疑問を感じるのです。

女性はお金をもらって高級な食事をできることを目的に、男性は若い女性と一緒に食事をできることを目的に行われるマッチングが、悲しくて仕方ないのです。

また、「女性は自分じゃ行けないお店で美味しいディナーをしたいから、自分で働いて食べるのではなく人のお金で食べようと思っている」「そのためにはその場で出会った人の前でニコニコ笑顔で愛想よくいる」とこの広告の製作者の方に思われているなら腹が立ちます。

しかし、私も社会人の方と食事に行くとき支払っていただくことはあります。デートでお相手の男性に支払っていただくこともあります。それと何が違うのかと言われると、「目的がそもそも美味しいご飯ではなく、その人との交流だから」であったり、「プロジェクトの打ち上げで私だけ学生だったから」だったり、と反論はあります。しかし、Paters内で意気投合して友人関係になったり、新たなビジネス的なプロジェクト発生したりする可能性がないわけではないと思います。

だからシンプルに、私はこのサービスのターゲットではないのです。刺さる人には刺さる。こういう出会いを求めている人のためにサービスが存在していて、その人にサービスの存在を周知するために広告がある。ただそれだけなんだと思います。

私がやることは、ただ「不適切な広告」と報告することです。

6、疲れたら山に登ろう

先日、インターン先の合宿で小さな山にハイキングへ行きました。久しぶりにたくさんの汗をかき、同僚の方々と仕事ではない話をし、自然を堪能しながら、楽しくハイキングすることができました。

帰りのバスの中で「山には広告がなくて、自分に訴えかけてくる人工的な情報量が少ないから良い。あっても『熊注意』や標識だけだし。」という会話になりました。本当に、全くその通りだと思いました。

歩きながら「この花はなんだろう」「風が心地よい」「変な虫がいる」と、自然と向き合っている間は日常の大小さまざまなストレスを忘れていました。

勝手に私に対して何かが社会のイデオロギーを主張してくることはなく、知らないうちに私の中に新たに価値観を刷り込まれることもありません。

考え込みがちな私が、本当にリラックスしながら過ごすことができた癒しの時間でした。

今後も定期的に自然に触れることのできる生活になったら良いなと心から思います。それなので、どなたか自然のなかに行くイベントがあったら、私を連れて行ってください。

6、おわりに

ここ半年ほど、私は随分心が疲弊していました。疲弊している明確な理由は見つかっていません。きっと複数あるのだと思います。理由の一つが、この情報の溢れる社会で目や耳に入る多くの主義主張に向き合って、理解しようとしたことがあると思っています。

理解しきれないこと、納得できないこと、即座に反論したい気持ちを飲み込んで、一度受け止める。一度受け止めてみても、そこに存在する意見と私の意見の妥協点が見つからない。

誰も傷つかない世界なんてなく、誰も傷つけない世界もない。頭でわかっていても、自分の言葉が誰かの傷になるかもしれないなんて、どうしても嫌でした。受け止めたくない現実でした。

だけど、どうやらこの現実は変えられるようなものではなく、将来何十年、何百年と経っても変わらない事実のように思えてきました。なぜならこの世界には約70億人もの人が生きているのですから。

私は少し成長して、いや大人になってと表現するのが良いのでしょうか、この現実の中で生きていく術を身につけないといけないようです。そうやって、不変のように感じる現実を理想に近づけていかないといけないようです。


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