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くたばれ、存在価値

我こそは、「アンチ存在価値男」である。

「自分は何の役にも立っていない」
「自分なんて存在価値がない」

こうやって悩んでいる人が、世の中にはたくさんいる。

でも僕は、そのようなことで悩んだことはない。

だって、ここでいう“役に立つ”とか“価値”とかって、全部
「他人にとってどれだけ利益があるか」
という話だからだ。

僕は、そういう存在価値なんていらないと思っている。

なんで他人の役に立たなくてはならないのか。
なんで他人に利益をもたらさなくてはならないのか。

いや、もちろん自分の行動で誰かを助けることができたら、とてもうれしい。
何かに貢献することで、人間が大きな喜びを得られるということも知っている。

でも、
そのために自分を犠牲にしたり、それができないからと言って、自分の存在自体を否定されたり、そんなのは違う
と思うのだ。

自分に余裕がない時にも、常に何かに貢献することを求められたり、自分自身に強いたりするか ら、生きるのがしんどくなるのである。

○くたばれ、職場での存在価値


人々が陥りがちなのが、職場で思うように活躍することができず、

「自分なんかこの会社に必要ない」

と、落ち込むパターンである。

成果が出せないばかりか、他の人の足を引っ張ってばかり。

やがて、ネガティブが加速して

「自分みたいな無能はこの世の中に存在する価値がないんだ…」

と、大袈裟に考えてしまうのである。


もちろん、落ち込むのは仕方がない。

ただ、そういうときこそ、「自分なんか〜」の思考から脱却しなければならない。

だって、
病んでいる状態で能動的に何かの役に立つなんて、ほぼ不可能
だからだ。

アンパンマンだって、顔が濡れただけで何もできなくなるのである。
手負いの一般人が、変な義務感に駆られたところで、できることなんてない。

我々は所詮、企業の歯車だ。

歯車と言っても、機械という意味ではない。
求められた場所で、求められた分の働きをする、
「従業員」
という名の歯車だ。

歯車とはいえ人間だから、調子が良いときも、悪い時もある。

歯車は、歯車らしく、目の前の仕事をやればいい。
そして、人間らしく、失敗したり落ち込んだりしながらやっていけばいいのだ。

こういうスタンスでいると、
謎の厳しい自己犠牲精神を持った、労働に心を乗っ取られた人型の奴隷
が圧力をかけてくるかもしれない。

「それを誰かがフォローする羽目になるんだぞ!」
「お金をもらっているくせに、それでいいのか!」

こういう類の圧力である。

「それでいいのか」
と問われたら、
「それでいい」
と答えるしかない。

だって、健全な組織なら、それぞれの従業員が
目の前の仕事をするだけで、自然と貢献できる
ような仕組みになっているはずなのである。

「人はミスをする」ということも織り込み済みであるはずだし、
少なくとも、一般の従業員よりずっと多くお金をもらっている、“組織を運営する側“の人がしっかりと働いていれば、そうなっているはずなのだ。

もし、どうしてもうまくいかないとしたら、それは本来ハマらない場所に、ハマらない形の歯車を、無理やり入れているからだ。

我々歯車は、うまく回り始めて余裕が出たときに、はじめて能動的に「気を利かせる」とか「誰 かを助ける」とか、そういうことをやっていけばいいのである。

○くたばれ、社会での存在価値


ここまで読んで、

「こいつ、自己中心的なやつだな」

と思った人もいるだろう。

もし、Twitter(芸名:X)に前述のようなことを要約して投稿すると、

「それは甘え、綺麗ごと」
「この社会は人々の犠牲で成り立っているのに」
「お前がそういうスタンスでいられるのは、他人のために生きている誰かがいるから」
「人に与えてもらってばっかり」

というように、
“世の中の生きづらさの正体”
みたいな人たちから、窮屈なコメントをされるのだと思う。

でも、
そのとおりなのだとしたら、もう社会は成り立たなくていい。

そうやって、全員で身を削りあわないと存在できないような社会なんか、必要ない。

社会を成り立たせるために人が倒れるなら、成り立たなくて結構。

「もうこれ以上不幸な命が増えないように」
と、地域猫のように今ある命を大切にしながら、人類は緩やかに消えていった方がいい。

うまいもん食べて、遊んで、寝て、仕方なく労働して、しんどかったら休んで。

これで人々の生活が成り立つようにするために、「社会」があるのである。

その社会を成り立たせるために自分を犠牲にするなんて、まるであべこべなのだ。

大人は、生きているだけでやたらと
「社会人として」
という言葉で圧力をかけられる。

「社会人」は

  • 自立し、

  • 人と積極的に関わり、

  • 人の役に立ち続ける

というようなことを求められ続ける。

だから、無職の人や、友達やパートナーがいない人は、非常に身が狭くなる。

おまけに、やけに他人に厳しい人たちが、

「世の中、無職や独り身ばかりだと国が滅びる」

みたいなことを言うもんだから、存在価値を自問自答するようになってしまう。

頭の中では「生き方は人それぞれ」なんて思っていても、ふとした時に、

「自分は社会のお荷物だ」 
「誰かの『大切な人』になれていない」

みたいな悩み方をしてしまうものだ。

これらもすべて、
「他人にとってどれだけ利益があるか」
という話である。

だいたい、

「○○みたいなのばかりだと国が滅びる」

とかよく聞くけれど、そういうことを言う人たちは、普段は国のことなんて考えていない。
気に入らない人を批判するときだけ、都合よく国を出してくるのだ。

言っておくが、
どんな人でも、一種類しかいなかったら国は滅びる。
寝不足の人ばかりでも滅びるし、過敏性腸症候群の人ばかりでも滅びる。
偏食の人ばかりでも滅びるし、集合体恐怖症の人ばかりでも滅びる。

もちろん、人の生き方にケチをつけて、
「お前みたいなやつばかりだと国が滅びる」
と言っちゃうような人ばかりでも、この国は滅びてしまうだろう。

だから、いちいち相手にする必要すらない。

「はいはい、滅びる滅びる」

と、カジュアルなノストラダムスっぽくあしらっておけばよいのだ。

○くたばれ、他人にとって存在価値


と、いうことで、
もう、「他人軸」で生きるのはやめにした方がいい。

そもそも、人間なんで、親の行為によって生まれてきただけで、生きているのに理由なんかない。

他人に与える利益は一旦置いておいて、自分が満足するように生きてみたらよいのだ。

目の前のことを着実にやっていけばいいし、できないならば何もしなくていい。

もっと勝手に、もっと気楽に。

余計な義務を手放して、食って寝て遊んで。
それだけじゃ生存できないから、断腸の思いで労働に手を染めて。

いつか、余裕が生まれた時に、他人の助けになればいい。

大切なのは、「誰かにとって価値がある」とか、「誰かに気に入られる」みたいに、自分を他人に委ねることではない。

自分という存在を慈しんで、
「存在するだけでいい」と思うこと。

どうしても存在価値が必要だというのならば、それをそう呼べばいいじゃないか。


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