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予定調和

閏年。
4年に一度の暦の上でのつじつま合わせ。
地球やそのほかの惑星、その他諸々。別に我々の都合で動いている訳ではないのに。
いやだからこそなのかはわからないが、せめて我々の一挙手一投足の指針としての暦だけでも、、、、という日。

2/29、
カレンダーをめくってみて気づく人が大半。普段は2/28で2月をおさめている人が閏年を重んじる。
まるでサッカーやラグビーのW杯で盛り上がる渋〇の人たちみたいに。
そんな彼らと同様、僕も今こうしてnoteを書いている。
表象されているものは違えどガソリンは似ている。

次の閏年には僕はそれなりにいい歳なはず。
さすがにその時には、今の僕みたく寝る前のストレッチ中に急いで時間を確認してわざわざPCを開くことなど恐らくしていないだろう。
そもそもnoteさん自体存続しているかわからない。
4年先どころか、1日先でもなんだかよくわからないはずなのに、
閏年とは一体どういうことなのだろうか。
僕が死んでも閏年は制定されているだろうし、W杯は行われているだろうし、五輪だってやっているのかもしれない。
1つの命というのは全体の予定調和の渦にしてみれば砂粒なのだろうとそう思う。
なに、そこまで珍しい話ではない。しかしそういう屍の上に現在の僕たちの生活が存在していると考えると、1つの命・人生というプロジェクトは案外壮大な気がしないだろうか。

僕が生まれるずっと前にある文豪が「この世から大義がなくなった。大義をもって死ぬことが出来なくなった」というような趣旨のことを言っていた。
あるイベントを境に僕たちの住処の秩序はある側の予定調和の渦に取り込まれてしまったのだろう。
約1世紀近く経った今もその流れは変わっていないと思われる。

生活しなきゃいけないから。
外見がcuteな方とお付き合いしたいから。
僕らの住処の秩序が誰かにとっての予定調和であることは大した問題ではない。見えざる手によって勝手に変遷していくし、それらの動きを変えるのはタイミングと運という説明で満足できるからだ。
しかしだ、
自分自身が何を表現したいのか、どう動きたいのか、どう生きたいのか。と自問自答する空間は誰かの予定調和の渦から守らねばならない。
その自問自答の過程で生み出されるアイデアが実現するのかどうかの結果などはどうでもいい。そんな簡単なことではないし大抵中途半端に妥協して終えることが大半だ。自分自身の都合で銀河系の惑星や目の前の草木や人は動いてないからね。
だからせめて、どうしたいのかという自問自答する空間自体は大事にしようじゃないか。
僕はそう思いながら日々いるが、大変に難しい。正直言うと、まだまだ痒いところに手が届いてない気がする。
しかし、だからといって放棄したくはない。
そういう気合で生き続けたい。

閏年に僕はそう思った。
そんな僕は4年後にどんな言葉を置くような若造になっているのだろうか。


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