現世を棄てることで開放される恋人たち 〜 「遊び」 増村保造 監督、1971年

ラピュタ阿佐ヶ谷「遊び」増村保造 監督、1971年。原作は野坂昭如「心中弁天島」だが未読である。同監督の「でんきくらげ」70年と同じく演劇的な演出がなされており、映画としては棒読みにもみえる。

関根恵子は監督の演出によって他のレモンセックスシリーズと印象が全く異なる。プロットは同じ野坂昭如の「火垂るの墓」に共通する骨組みをもっている。すなわち、絶望的な環境にある孤独な魂どうしが出会って、この世を棄てることで開放されるというものがたりである。

主人公たちの置かれた底辺家庭の描写はドラマチックであるが確実に描写されている。芝居がかった大げさにも思える演技まわしのせいか、過度に感情移入することなく淡々と観てしまうのだが、それでも引き込まれるのは構成とセリフがしっかり演出されているからだろう。

底辺家庭の不幸。こういう不幸が実際にあることを知らない人にはギャグにしか見えないかもしれない。たぶん実際に似たような境遇はあって、自分の血縁にも思い当たるふしがあったりする。底辺社会の不幸の最大公約数としてカリカチュア化された描写。まさに画に描いたような不幸であるが、きちんとした画に落とし込めるかどうかは、腕前が問われる。

どうも関根恵子が梶芽衣子のように見えて仕方なかったのだが、思い返せば、同監督が梶芽衣子を主役に据えて撮った「曽根崎心中」1978年のイメージが残っているのだった。これも同じ心中ものであり「遊び」の別バージョン、あるいは発展型とみることができるかもしれない。

それにしても哀しい話である。「火垂るの墓」にも言えることだが、どちらも願望充足ドラマであるが、そのドラマは現実には起こりえないことが確実に分かっている。確実に得られない幸福を描いた一種の鎮魂歌としての物語。現実では現実的には主人公たちはヤクザのしがらみから離れられず、縛られることになる。中村登「夜の片鱗」がその裏面になるだろう。