詩歌に救われたい?
ここ最近、自分の仕事を振り返る作業が多くて薄暗い気持ちになりますね。牡蠣とビスクだけがお前の自我を支えている。
こちらは一年分の発表作品+10代20代の頃の連作集。
山階君曰く、どうやら無事に入稿したようです。来週納品され次第、随時発送していきます。皆様のご予約、まだまだお待ちしています。
こちらは14日の夜ですね。zoomですが人前でしゃべります。今回、呼んでいただいた講座が、全体の立て付けとしてはアートマネジメント系の企画で
という目的のものでした。むしろそれ私が受けたいわ。セルフマネジメント出来てないわ。
で、そこで活動紹介を簡単にしなければならないのですが、私は何か華々しい経歴があるわけでもなし、こういう時に地味に困るんですよね。当日は作品の話と場の話を中心に展開しようかと思います。
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以下、当日使わなそうなメモ。
たとえば、(詩歌に限らず)表現に対してこういう作り手を特権化したい人々っていうのは一定数いらっしゃって。作者に限らず、売り手や読者の側にも大勢いる。
それ自体は別に悪いことだとは思いません。それこそセルフマネジメントの領域として、私は特別な人間です(だから作品に価値がある)と言い続けるのもひとつの戦略です。
ただそこで、「普通でない」作者性そのものに価値を見出してしまうと、あとは作者像のキャラクター消費とインフレバトルの世界になってしまう。詩歌は生きづらい人にやさしいけれど、生きづらいからって詩歌が上手くなるわけではないからな。
作者としてはそのフィールドに上がりたくない、という自意識があり、読者としてはそのように作中主体と作者を恣意的に混同し、他者を蕩尽していくことに対しての後ろめたさがあります。わたしはキャラ消費からもエモ消費からも距離をおきたい。
作者は、(少なくとも読者と同程度しか)特権的な存在ではない、という考えもまた、言ってしまえば個人的な信仰です。先の田中さんのツイートを踏まえて言うと、実際の人生はともかく「普通に生きて普通に育った」人の顔をしていたほうが、長く創作を続けられる、ような気がするんですよね。
長く続けて何か意味があるのかとか、マネタイズできねえぞとか、また別の問題もありますが。
で、なるべく普通に生きていくための、属人性に頼らないシステムをどうやったら立ち上げられるか。来年はこの辺の話を詳しく突っ込んでいきたいですね。よろしくお願いします。
https://utatopolska.stores.jp/items/5ad9c695434c7212b20005ad
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