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遺言書作成キット

某日。仕事に行く前に新宿の世界堂に寄る。

仕事用のゴム印が必要になって、確か1Fのこの辺にあった…気がしていたところはファンシースタンプ売り場だった。ファンシーじゃない方のスタンプ売り場を店員さんに聞く。ファンシーじゃないスタンプ売り場はファンシースタンプ売り場の半分くらいのスペースだった。

用途の極めて限られたゴム印たち。
当期損失金。租税公課。電話加入権。専従者給料。
まあこいつらも見方次第ではファンシーな語彙であるよ。

目当てのスタンプ(御招待、と太明朝で書かれたあまりファンシーでないゴム印)を買って店内をうろついていると、遺書が売っていた。

遺言書作成キット/遺言書専用用紙封筒セット
家族仲が良くても、資産家でなくても、遺言書は必要です。
改ざん防止用紙・高級封筒付き
法務局保管制度対応
弁護士による遺言書作成WEBセミナー付

ああ、遺書じゃなくて遺言書か。遺書と遺言書は違うな。

「遺言書作成キット/遺言書専用用紙封筒セット」の二点で短歌一首分、税抜き2500円。
遺言書に必要なライティングスキルは2500円で習得できる、として。では遺書はどうやったら書けるようになるだろうか。

私には遺言書が必要な財産も親族もないんだけど。それでも。

ふいに私は死ぬかもしれない。

ということを、コロナからこちら、特に考える。
いつ死ぬかわからないから、己の制作についてまめにセーブしておこう、という意識から2020年の作品集を作った。あれはそういう意味でたいへん個人的な本です。

公務員から安定性を抜いたような身分(いわゆる官製ワープア)で長く働いていて、人生に対する長期的な視座がなかなか持てない。いまのところ積極的には死なないけれど、ふとしたはずみで死んでしまったなら、それはそれで仕方ないと思う。

で、そのときに。死ぬのは仕方ないとして、誰にも気付かれず東京都北区の木賃アパートの暗がりで少しづつ液化してゆく吉田…というのはなるべくなら避けておきたい。私自身はともかく、部屋に残した蔵書と在庫はしかるべき形で処分してもらいたい。

何年か前。舞台俳優の友人と飲んでいた時に、その人が「ちゃんと納税できるようになりたい」という話をしていたのを覚えている。

家族を持たず、会社や地域といったコミュニティにも帰属しない都市の孤独な人間が「一人前」の「市民」となった、というイニシエーション、としての納税。あるいは投票、選挙権の行使も同じかもしれない。社会参画というにはあまりに密やかで希薄だけれども。
個人的には税金は(納めずに済むのなら)なるべく納めたくない人間だけれど、「納税できるようになりたい」という気持ちは理解できる。

彼女はその後定時の仕事に就いて、しばらく舞台から遠ざかっている。

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく
/山田航

(孤独死でいいよ。もう寝る。)ザル状の陽射し差し込むフローリングに
/川島結佳子

なるべく世代論に持ち込ませずに、もう少し丁寧に、それぞれの、死にたい、の話をしたい。死んでから映画にされた人の気持ちは私にはわからない。

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