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精神障害の啓発とその支援の変化と関わってきて〜第一幕・理解促進事業の始まり〜

はじめに

詠み人知らずは精神障害者支援を行ってきてもう30年近くになります。この間精神障害者の支援環境は大きく変化していると思っています。しかし変わっているところだけでなく変わっていないところもあるのは事実で、まだまだ精神障害は世の中では知られていない障害であると言わざるを得ません。今回は私がソーシャルワーカーとして生きてきた歴史的な流れとその中で関わってきた啓発に関わるソーシャルワークについて私見ですが、考えてみたいと思います。

1.精神障害者支援を取り巻く環境の変化……障害者基本法前後に起きたこと

(1)障害者基本法と精神障害

詠み人知らずがソーシャルワーカーになった頃はまだ精神保健法の時代でした時代でした。

そして就職した頃に大きな変化が生まれました。障害者基本法ができて「精神障害者」が障害者として認められることになったのです。それが1993年でした。
障害者として認められるって「どういうこっちゃ?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、1993年までは精神障害者は「障害者施策」で語られることはなかったということです。保健所が一手に引き受けており、精神障害者=社会防衛的な対象になっていたため、精神障害者=危険人物という構図があり、精神障害者は障害という言葉を使われていながらも実は障害者福祉の中で語られることはなかったのです。もちろんその背景には精神疾患と精神障害がほぼ同じ言葉として扱われていたことも大きな理由の一つだと考えられます。このことについては別の機会でお話ししたいと思います。そしてそれはこれまでの精神障害者が抱える問題の根深さにつながると思ってもらえればいいのかと思います。精神障害者が障害者として認められたことはこの後の支援の形を大きく変えていくことになったと言っていいかと思っています。

(2)精神保健福祉法と障害者手帳の創設

1995年精神保健福祉法(精神保健および精神障害者福祉に関する法律)へと変わり、ここで初めて精神障害者にも「障害者手帳」が交付されることになります。その頃はまだ家族会などからの反対もあり手帳への写真添付はされていませんでした。まだまだ差別偏見の対象だったということが挙げられるかと思います。統合失調症の病名もまだ「精神分裂病」と言われていた時代でした。

差別偏見は本当に大変で、まだこの頃は「精神分裂病」という病名を伝えるかどうか等も家族と話し合うことがありました。当時勤めていた院長からはもっと前は病名告知する場合、医局で医師同士で誰が言うかじゃんけんで決めて話すくらいの重みや苦しみを持っていた時代もあるとお聞きしたことがあります。それくらい重い暗いイメージの病気だったと言えます。

メディアもこの頃は何か凶悪犯罪が起きたらすぐに「精神科受診歴」があるかどうかを報道していました。現在精神科受診しているかどうかはどうでもよく、たった1回の受診歴があるかどうかですらまるで精神科受診が凶悪犯罪者を生み出しているかのような扱いで報道されていたことに怒りを覚えたことが何度となくありました。デイケアに来ているメンバーはその度に傷ついていたり、そのショックなどを相談に来るメンバーもその頃はいました。もちろんこの頃あったセンセーショナルな事件もあったからではありますが。その一方で、犯罪を犯した人はなぜか起訴されずに裁判を受ける権利すら与えられないで、精神科に入院させられてしまうことにも納得できずモヤモヤした気持ちもありました。警察からは隠語で「マルセイ」と呼ばれているらしいこともこの頃知り「マルサ」や「マルボウ」と同じ扱いであることにショックを覚えました。

さて話を戻しますが、障害者手帳が創設されたことは今にして思えば、これまでの精神障害者施策の中ではとても大きな出来事だったのだと言えます。というのも手帳ができた頃は手帳を取ることは「精神障害者であるというレッテルを自らに貼る」行為でした。しかもJRをはじめとする私鉄などは精神障害者手帳へのサービスは行わないとしており、精神障害者にとって大きなメリットはほとんどなかったといってもいい状況でした。余談ですが、某地域で福祉法人が精神障害者を身体障害者手帳のように公共交通機関の割引対象にしてほしいと沿線私鉄に署名を持っていったところ「精神障害者が当鉄道会社を使っているという実態が分からないので対象としない」と回答されたと聞きました。聞いて思ったのは、これも社会防衛としての意味合いとして捉えられているのだと解釈できるものでした。そうでなければ、利用しているかどうかの社会調査くらいいくらでもできますし、写真の添付になった時点でも割引は開始できるはずですが、それもしていないところを考えれば「精神障害者が利用できることを推進することで電車の中で何かしらの事故や事件を起こすかもしれない」という誤った思い込みが鉄道会社にあるように感じてしまいます。これが本当であれば、まさしく「思い込みからくる差別偏見」であり、まだまだ精神障害が抱える苦しみとして存在すると考えられます。もちろんこれも詠み人知らずによる思い込みなのかもしれませんが。

就職に関しても、障害者雇用率にも算定されていないのでハローワークに行っても主治医意見書を提出することに変わりはなく(今も意見書提出必要な場合もありますが)、これまでの意見書提出の流れの中では手帳でなくてもいいという話もあり、「手帳取る意味はどこ?」「何のための手帳?」と考えてしまうソーシャルワーカーも少なくなかったと思います。周囲のワーカーの中でも「取得する」話はほとんどしない、と言っていた人もいたので、これは広まるのか?不安になることもありました。逆にデイケアで院外レクなどでどこかの施設に行く場合にはそれまでは院長名で「精神障害でリハビリをしている人たち」という書類を提出することで障害者割引が適応されていたところでも「手帳がある人は適応になるが手帳がない人は適応外」というところもあり、一時的に不便な状況になったことも記憶しています。「こんな不便な手帳要らない」と少しイライラしてしまったことを思い出すと、このような新しい制度・サービスができたときにはこれまでの方法からの移行期としてこのようなトラブルが生じることがあると認識しておくとよいのだろうと捉えることができますが、やはり目の前のこととしては広い視野で考えるのは難しかったと思います。

(3)精神分裂病から統合失調症へ

次に精神障害について大きく変える出来事は2002年の病名変更が挙げられると思います。
先述したように精神分裂病という名前から現在の統合失調症に変更されたことはとても大きな変化でした。
今でこそSNSでも「トーシツ」といってネットスラングも使われているくらいに浸透しているのでとても大きなことだと思います。精神分裂病と言われていた当時はやはりその抵抗感は非常に強いものだったと考えています。その頃はインターネットはあるもののSNSがそこまで発達していなかったこともあるのかもしれませんが、あのタイミングで名前が変更されたことはとても意義のあることだったのではないかと思っています。

とはいえその当時現場にいて「精神分裂病の名前が変わったからといっていったいどんな変化があるんだ?」としか思えませんでした。それくらい差別は偏見に疲れていたという状況にありました。これには前年に起きた大阪教育大学附属池田小事件があったことは言うまでもありません。その前年には西鉄バスジャック事件があり、ここでも「精神科受診歴がある」ことだけが独り歩きするかのように報道され、精神障害者=犯罪者のような扱いをされる報道を見て不安になるメンバーを見ていたので、どうしても名称変更だけでは大きな変化はないと考えてしまっていました。もちろんそれだけ根深い問題ではありますが、ソーシャルワーカーとしては「精神分裂病」という言葉に慣れてしまっていたことがあるのかもしれません。いまだに偏見は強いものの精神分裂病という名前のままでなくてよかったと今でこそ考えられますが、当時は小手先なやり方だと考えていました。そこから約20年経過して統合失調症は偏見をなくすところまではできていませんが、少し和らげるだけの効果はあったと言えるのではないかと思います。

2.啓発活動の始まりとしての理解促進事業

こういう状況から少し経ってからになりますが、2006年頃から地域では精神障害の理解促進事業と呼ばれるものが始まっていきました。

多くの地域でいろいろな取り組み方で行われているかと思いますが、ここからは詠み人知らずの所属機関がある地域のこととしてお話していきますのでご了承ください。
理解促進事業は、市が保健所と組んで地域にある医療機関・福祉事業所を巻き込んで精神障害の理解促進をしようとはじめたのでした。この中で、精神障害を少しでも理解してもらえるために精神障害の経験を持つ人の体験発表をしてもらう機会を作り、体験発表する人たちが地域の中で増えてきたことが大きな出来事だったと思います。

詠み人知らずが関わっている地域では小学校区ごとに地域の方々に理解してもらうため、精神障害者の体験談の発表と医師からの精神疾患の解説をセットにしたものを行っていました。

詠み人知らずが啓発に関わりだしたのもここからでした。体験談の発表をデイケアメンバーにお願いしてメンバーが自分の体験を振り返り、自分の言葉で自分の口で語ることは普段支援をしている自分にとってもとても意味深くしっかりと受け止めていきたい言葉ばかりでした。

体験をまとめるにあたり、自分の今までを振り返る時間を作ることはメンバーにとってとても大変な作業だったようで、思い出して「泣きながら書いた」メンバーもいました。

私はそのしんどさを相談室で発表メンバーから話を聞いて、一緒に泣いたり励ましたり、体験談の原稿の完成を喜んだりしていました。理解促進事業が開始された当初は比較的状態が落ち着いていて、こういうことを話してもよさそうなことを普段から話していたメンバーにソーシャルワーカーが声をかけてお願いをしていました。しかし回数を重ねていくうちにもっといろいろなメンバーに知ってもらい参加してもらえる方法がないかと考えるようになりました。デイケアスタッフとしてはこのような体験談はとても貴重で大切なものなので、発表に際してもっとよいものにし、他のメンバーにとっても大切なものとするため何ができるかを考えました。

それがリハーサルとしてのSSTの活用でした。

SSTはSocial Skills Trainingの略称です。生活技能訓練と言われるもので主にコミュニケーションでうまくいかない、どう伝えればよいか分からない時に練習するプログラムです。本来的には、例えば主治医に薬を変えてもらいたいことを伝えたいけどうまく伝えられない、メンバーにお願いしたいことがあるのにうまく言えないといったことをどうすればうまく伝えられるかを練習することが多いのですが、啓発用の体験談発表も伝わらなければ意味がない、これほどの原稿をきちんと生かすのもソーシャルワーカーとして大事にしなければと思ったことも一つでした。もちろんメンバーにも誰かに伝えたいという気持ちもあり、この提案に「やってみたい」と言ってくれるメンバーもいて、実現しました。メンバーにとっても誰か分からない人たちの前で話す緊張感より、まず自分のことを知っているメンバーに話してその感想を教えてもらえたり、アドバイスをもらえることはとても心強いことになります。最初は尻込みしていたメンバーも「やってみてよかった」と本番に自信をつけて臨む勇気をもらえていたようでした。

SSTでリハーサルを行う効果はとても有効で、発表するメンバーにとっては自信をつける場であり、発表を聞くメンバーにとっては他の人の体験と自分の体験を照らし合わせる機会となり、自分自身を振り返る時間となりました。リハーサルでメンバー数人は泣いてしまうこともあったので事前にそういう話だということ、途中でしんどくなった場合は別室に行っていてもいいことなども伝えていましたが、ほとんどのメンバーがいつもちゃんと最後まで聞いてくれていました。メンバーからは「とてもよかった」という感想だけでなく「ここが〇〇さんが伝えたいことだと思うから強調したらいいと思う」「もっと感情込めた方が伝わる」といったさらに良くするためのアドバイスも出てメンバー同士の結びつきやデイケアのメリットがとても活かせる場であったと思いました。

このSSTでのリハーサルは思わぬ副産物も産んでくれました。「自分も発表したい」というメンバーが現れたのです。

体験談の発表者を探すのは比較的苦労します。やはり自分の辛い体験を他の人の前で話すことはとても勇気がいる行為です。スタッフから言われて「分かりました」と二つ返事でしてくれるメンバーはいません。ですがこのような発表の場を作ったことで、イメージしやすくなり、スタッフから「やってみない?」と言われたときに「やってみてもいい」と考えてくれるメンバーが出やすくなっていきます。そしてメンバーの中には「私もやってみたい」と思ってくれる人が出てきてくれたのでした。もちろん我も我もとくるわけではありませんが、結局この小学校区を回る理解促進事業が終わるまでの数年間でうちのデイケアメンバーが話した回数が一番多かったのです。

体験談を発表するにあたり、以前発表したメンバーにどんな気持ちだったのかを聞いたりするところから始まり、原稿を書いていく中での辛さや苦しみを共感しあったりすることはメンバー同士の関心を強くするとともに結びつきを強くしてくれたと思っています。

これはすごいことだと思いました。もちろん発表したメンバーにとっても今がとても大きく、この体験談発表後とてもよい変化が生まれ就職できたり、とてもしっかり自分のことを話せるようになったメンバーが増えました。

体験談はとても好評で住民の皆さんも涙ながらに聞いていただけたりすることも多くありました。

メンバーそれぞれにもスタッフが想像していなかったことをいろいろと想像してくれていたようでした。それらについては「事例で分かるピアサポート実践 精神障害者の地域生活がひろがる」(中央出版2014年)の中で「体験談の発表によりピアサポーターが得たもの(p158~165)」で座談会として話をしていただいたことがあります。こちらの中ではピアサポーターにもなったメンバーたちがそれぞれが感じたことを話してくれています。スタッフ・支援者からは想像していないことを考えていたりしていたのがとても面白かったのを覚えています。

この理解促進事業での体験談発表はこの後の詠み人知らずのワーカー人生とひとりのメンバーの人生を大きく変える(たいした変わってないかもしれませんけど)ものに繋がることにもなります。これは次の話にしていきたいと思っています。

さまざまな体験談を生み出したこの理解促進事業は啓発活動としてはとてもよいものだったと考えています。

しかし、それでも住民感情としては「精神障害者がいるのもいてもいいこともわかった、でもうちの隣に来てもらうのは困る」という気持ちはまだまだ強くあると感じることはありました。その気持ちを強く感じる時間がその数年前にあったからなのですが、それもまた次の機会にお話ししたいと思います。

ということで、話がどんどん長くなるのでまずはいったんこの辺で第一幕終了としておきたいと思います。第2幕も早めに書いていこうかと思いますのでよろしくお願いします。







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