贅沢の定義
贅沢って何だろう。
今日、私は朝から栗拾いに出かけた。
夫の出張中から「パパが帰ってきたら栗拾いに行こうね」と子どもたちと約束していて、みんなで楽しみにしていた行事だ。
昨年は、少し出遅れたり午後に出かけたこともあって、食べる分は拾えたものの一回しか味わえず、できればもう少し…といった感じだった。
今年は昨年よりもたくさん拾うことができて、みんな大満足で帰宅した。
拾ってきたたくさんの栗。
とにかく、今日は栗ごはんが食べたかった。
早速栗の皮剥きから始める。
売り物ではない自然の栗。大きさはなかなかに小さい。
それをそれなりにたくさん剥かないといけないので、一人ではやる気になれず、子どもたちにも手伝ってもらう。
そのうちに、夫まで引き摺り込んで、家族総出で栗の皮剥きだ。
みんなで黙々と1時間ほど皮を剥いて、ようやく炊飯器に栗を託す。
そこから、魚を焼いて味噌汁を作り、実に質素なごはんが出来上がった。
しかし、朝からみんなで栗を拾って、みんなで皮を剥いて、朝拾った栗で作った栗ごはんをみんなで食べることが、どうも贅沢に感じられた。
出来上がったごはんは質素だけど、何だかとても豊かな気がしたのだ。
そこから、『贅沢』というのは金額の問題ではない、というのが今日の気づきだった。
***
贅沢をする、というと、私の頭の中には、お刺身の舟盛りが浮かんでくる。
鯛やヒラメの舞い踊り、という感じに、とにかくキラキラと豪華な食事、豪華な旅館の豪華な部屋で豪遊、みたいなのが、いわゆる贅沢だと思ってきた。
だけど、必ずしも金額をかけて豪華なことをすることではなく、金額に関係なく、自分が満足できる、または自分の心に栄養を与える、というような意味合いなのかもしれない。
贅沢は常に高価でなくてもいいのだ。
だから、今日の栗ごはんはまさに贅沢だったに違いない。
たくさん拾えたので、まだあと数回栗ごはんが楽しめるくらいに栗が残っているし、今年はスイーツも作ろうと、ちゃんと冷凍しておいた(私の大好物はモンブランなのだ)。
ドイツの冬は長くて暗いから、たまに栗を出して楽しもう。
冬眠前のクマみたいだけど、そんな日が、たまにあるのがいい。
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