「基準」のなにか

どうも、学生です。
美味しいものの基準点は、蒲焼さん太郎の学生です。
蒲焼さん太郎もだいぶ旨いけど。
さて、今回は「『基準』のなにか」です。

ここ最近「普通」とは何だろう。と考えていた。
「普通」の基準は何なのだろうか。と。
正直、多くの人はそこまで考えなくてもいい話だと思う。
というか、考えるまでいかないのではないかと。
ただ暮らしている中で、
「普通」について考える時間などないし、
それについて考えていたり、悩んだり、もがいたりする
その方が「普通じゃない」って思う人も少なくない。
ただ、私は少々考えすぎてしまう性分であるため、
逆に、「普通」について考えていないほうが
私にとっては「普通じゃない」ということになる。
なんて難儀な性格なんだろうか。

「普通」について考えて居る中であることを思った。

私たちの思っている基準は思っている以上に高いのでは?

と。
これに関しては二つのことについて
自分の中での結論を付けることができた。

まず、普通よりもすごいことをしているのに、
あまり自己評価が高く感じないのは、
評価軸の基準を「自分」にしているからではないかと考える。
例えば、
泳ぎができていたり、演技力があったり、ピアノが弾けたり、と
他の人からすると、それは憧れであったり、尊敬であったり、
先に行ってしまうと、僻みや妬みにまで行ってしまうが、
少なくとも、「すごい」と言えるようなことである。
でも、それを言われたからって、「普通」と答える人だっている。
それは、今までやってきたことや積み重ねてきた能力は、
その人にとっては慣れているから、
自分の中で「普通」な能力であると感じる。
だから、その能力が失われたり、
その能力を使ったことができなくなったりすると、
「普通じゃなくなった」と悲嘆に進んでいく。
でも、
他の人から見れば、称賛されるべき能力であるし、
できなくなったからと言っても、
「それが普通」であると感じる。
謙遜をして僻みや妬みを買うことがあるが、
それはたぶん上に書いたような齟齬が生まれてしまうせいだろう。

そして、二つ目。
日常生活において、「できない」ことを悲観的に感じてしまうのは、
評価軸の基準を「一般」にしているからではないかと考える。
人間の脳っていうのは、都合がよすぎる。
自分を低く見積もるには、あまりにも都合がよすぎると感じてしまった。
日常生活で仕事や家事、普段していることが
「できない」「できなくなる」
ことがよくある。
それは、何かしらのイベントのせいであったり、
ストレスであったり、マイペースが起因していることだってある。
その「できない」「できなくなる」ことに対して、
多くの人は悲観的に考えてしまう。
少なくとも、私はそうである。
罪悪感といういらないトッピングも無料追加で。
なぜ、悲観的に考えてしまうのか。
私が思うに、
評価基準を「一般」というマジョリティにしてしまい、
日常生活でやることの内容について多くが
「できる」となっているため、
「できない」「できなくなる」ことは
一般というマジョリティから除外されていると感じてしまい、
基準を下回ってしまったと感じて、悲観的になってしまうのではないか。と。
「すごくできる」
「できる」
「できない」
という順位付けがされていたとして、
「できる」が基準のラインである
と考えているからではないかと考える。

でも、
果たして、
その評価の仕方はあっているのだろうかと。
私たちが赤ん坊の頃は何をするにしても誰かに手伝ってもらっていた。
一人では何もできない。
だからこそ、できるようになった時には
喜ばれたり、自分でも喜んでいたと思う。
元は基準のラインは「できない」なのだ。
それを、できるのが当たり前という見方に成り代わってしまい、
自分でも他者との比較をするようになり、
一般を基準にして自分を見るようになってしまい、
いつの間にか、「できる」が基準のラインになってしまっていた。

だから、
成長した今でも、基準のラインは「できない」でいい。
「できた」ことをすごいと思うようになった方が、
自己肯定感は少しだけでも上がるのではないか?
少なくとも、自己否定の時間は減ると思う。
「できた」自分を褒めてみてもいいんじゃないか?
それは、「生きている」ことが前提条件ではある。
それは前もって言っといたほうがいいと思った。
「生きている」ことが前提条件で、
「できた」ことをすごいと思う。
我ながら良い考え方ではないか?
多分既出の考えではあると思うが。

基準なんて人それぞれ
だからこそ、
基準のラインはおもっきし低く設定した方がいい。
そんなことを考えたが、
私はこれから
その様な生き方ができるのだろうか。
傲慢にはならないように、
でも、小さく自画自賛して。
一人で褒めて、一人でガッツポーズして、
それを街中でやって
他の人から「何やってんの?」って見られたい。
あくまで妄想。
若干変態な妄想。
でも、そんなことがある生き方もありだなと考えてみた。

今回は以上。次回も何卒。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?