境界線以下の自分

差別という言葉が取り上げられてる。

自分は当事者ではないし、政治に長けているわけでもないから、グサっとくる批判は書けない。

でも差別は無意識であるんだろうなとは思う。

ブス、美人。陰キャ、陽キャ。有能、無能。

個人を見ないで、カテゴリーを分ける考え方は、好きになれない。

この手の言葉を見聞きすると、どうしても自分を上位側のカテゴリーに置くのを躊躇ってしまい、良くないとされている側に置いて考えてしまう。

自分より賢い人、自分よりおしゃれな人、顔が整った人、仕事をテキパキとこなす人を知ってる上に、もしかしたらこの人達よりもさらに上位に属している人もいるのかも知れない。自分が知らないだけで。

ドラゴンボールの世界なら農家のオヤジはビルスの存在を知らないように。

この雑なカテゴリー分けにおいて自分を美人、イケメン、陽キャ、有能などの位置における人の生きる力強さはどこから生まれてるのか。

筋トレ?
テイネイナセイカツ?

何にせよ自分に自信を持ち生きている人なのだろうから素晴らしいことだと思う。

となると気になるのは境界線だ。

カテゴリー分けを誰かがし始めた以上、境界線があるはず。

陰と陽の境目、美と醜の境目、あのカテゴリーの境目はどんな状態なんだろう。

仮に普通という中間層を丸呑みにするカテゴリーがあったとしても境目が一つから二つに増えるだけだ。

さらにその境界線に別のカテゴリーを作る。さらにカテゴリーを、さらにカテゴリーを…手を変え品を変え、カテゴリーを無限に増大させた末には、個人の主観しか残らないように思える。

私はかっこいいと思う。私はかっこいいとは思わない。

チワワをかわいいと思う人もいれば、チワワを怖いと思う人もいる。

問題はそこに筋の通った理由があるかどうかが重要な気がする。

自分はリードに繋がれてない元気ハツラツなチワワに全力で追いかけられ、ランドセルに噛み付かれ、愛玩動物というにはあまりにも強い力で振り回された過去があるから怖いと感じてしまう。けど、それはあのチワワだけだろう。

美人は性格が悪いのではなく、容姿が整ったとある人が偶然性格が悪かった。それがどれだけ高確率で同じ条件が揃っていたとしても、やはり最後は個人を見ないといけないんだと思う。

個人を見て判断していくためには、判断材料が必要だし、その判断材料も正しいのかどうか疑ってみないといけない。

その土地の文化が判断材料になってることもあるし。

人を判断するのって、歴史的・文化的背景などの知識、定められている基本的な人権など膨大な知識とそれを疑い自分の判断が妥当なのかと常々考えていくようなものなのかもしれない。

関わる人物が周囲の人間だけであれば、思考のキャパに収まっていたのかもしれないが、今や世界中の様々な人と交流が取れてしまい、本来なすべき過程をすっ飛ばしてしまうようになった結果、簡単で雑なカテゴリーで区切ってしまっているのかもしれない。

自分は自分に自信のない人間だからカテゴリーを細かくされればされるほど、上のカテゴリーではないよなぁと境界線のちょっと下に置いてしまう。

ややこしいことを考えずに過ごした結果「いいと思うよ」と一言誰かに言ってもらえれば、「やったー!」と素直に喜べるようになりたい。

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