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私の「まぶたさん」

最近心を開いて人と向き合うという訓練をしている。
私は自分の嫌なことは聞かない・変な風に解釈する、そういう癖があるのだが、それをわかりやすくまぶたを開く/閉じる、と表現している。

例えば苦手だな、嫌いだな、と思う人と話をする際に、まぶたを閉じてしまう。
だから苦手な人と話すと、言葉が出ない(話せなくなってしまう)。
だから嫌いな人と話すと、批判的にとらえてしまう。

まぶたを開いて相手と向き合う訓練。
つまり、自分がそういう先入観を持っていることを認識して、まぶた開け!今まぶたを閉じようとしているぞ!開けろ!見ろ!と思いながら話す。

文脈だけで聞くと、怪しい・・・。

まぁ、真剣なんです。
そして、正直まぶたを開ける意識を持つと、とっても疲れる。
まじでどっと疲れる。

昨日苦手な業者と1時間話をするとき実践して、激しく消耗した。
まぶたを開けれたおかげもあって、業者に反感しかなかった以前までに比べて、この人もこの人なりの熱意や苦労があるんだな、と受け止めることができた。

情に流されやすい私は、まぶたを開くとすべてがいい人に思えてしまうんじゃないかと感じた。
まぶたを開くことをデメリットとすら思った。
疲れるだけやん。みんな情がわいて仕事もうまい判断できなくなるやん。

いかん、やりたくない言い訳を見つけている。

今まで慣れたフィルターを付けて世の中見てたほうがラクチン。
フィルターを外してありのままを見るということは、過去の自分を幾分か否定するということになるから苦しい。
でも、フィルターを付けていたら人間関係がうまくいかなくて苦しかったのだ。
あの人も責めて、自分も責めて、何が正しいのかとか考えてがんじがらめになってしまった。
だからフィルターをとりはらって、そのままをまぶたを開いて見るように努力している。
何が正しいとかではなく、ありのままを受け入れる。
あなたはあなたで、私は私で。
それでいいんだ。そういうのもあるよね。

言葉尻だけを受け取るのではなく、その奥の気持ちを見るように。
そのぶっきらぼうさの奥には何があるのか、激しい怒りの奥には何があるのか。
図々しく振舞うのはどうしてなのか。
自分ですら自分の心がわからないこともあるのに人のこともなかなか難しい。

でも、まぶたを開いてその奥にアクセスできると、ちょっと捉え方が違う気がする。
何だ、あなたも同じ人間なのね。
そんなつながりを感じれるような気がするのだ。

まぁ、そんなきれいごとばかりではなく、
バカヤロー!
死んでしまえ!
あほなんじゃないの!!?
そう思うこともあるけどね。日々鍛錬。

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