スイッチ

何かを傷付けずに生きることなどできないのだ、と気付いた時。私は絶望した。

ついこの間まで呼吸をしていたであろう生命体が、今では皿の上を鮮やかに彩っている。

それをナイフで切り刻み、口に運ばなければ私の家族は悲しむだろう。

以前、数年ほど肉食を辞めた事があった。

その時は元々患っていた胃の不調が著しかったためにその決断に至ったのだが

肉食を辞めて半年ほどでふと思った。

「恐らく、このままでは人付き合いが出来なくなるかもしれない」と。

「ごめん、私それ食べれないんだよね」という一言で失われる何かは…無いようでしっかりとあるし

きっと次からはその食事会には呼ばれなくなるだろう。

自分が彼らにとって「その程度」の価値しかない人間なのだと自覚するのも辛いし、その場の空気を盛り下げてしまうのも辛い。

皆で焼肉屋さんに行こうと思っていたのに、私一人のせいで誰かを困惑させてしまったり

私だけがサラダを食べていたとしても、なんだか居た堪れない。

「なんでお肉食べれないの?」と聞かれても、どう答えていいか分からない。

ヴィーガンの人は、本当にすごいと思う。

今は以前よりもベジタリアン向けの食事が用意されてたり、代替肉を提供してくれる焼肉チェーン店なども増えてきたが

好きな人…仲良くなりたい相手が肉食だったらどうするか?どう思われるだろうか?

「自分と同じような人を好きになればいい」

それだけの話だが、それがどんなに難しいことか。

人は、意図的に「人を好きになる」ことなどできない。

それは交通事故のように思いもよらぬタイミングで起きるものだから。

実際にそうだったし。当時それとなく相手にその旨を伝えたこともあるが、恐らく「面倒くさいな」と思われたと思う。この時代では当然のことだ。

肉食を選んでも、肉食をやめても、私は生きにくい。

出来ることなら、誰も傷付けずに生きていきたかった。

動物が可愛い、動物愛護団体に所属している、と言っている人が普通の顔をして牛肉を食べているのはなぜだろう。

人間を食べる敵に対して怒り狂う、私の大好きなアニメのキャラは肉食についてはどう思っているのだろうか。

インコを飼っている人が、インコを愛でながら美味しそうに焼き鳥を食べれるのはなぜ?

きっとどこかで「スイッチ」を切っているんだ。

そういう類のことを、考えないように。

次から次へと疑問が沸いてきて頭がおかしくなりそうだった。

私の周りにヴィーガンの知り合いがいない訳ではないが、彼らには素晴らしいコミュ力があったし

「私、お肉食べれないんだ」と言っても許される「何か」があった。

でも私がそれをやったら「なんだこいつ、洒落くせえ」と思われるだけだろうと思った。

家族が大好きなステーキ屋さんにも行けず、「この子が行けないから今日は辞めよう」と言わせてしまうのも苦しかった。

全然、勝手に行ってきてもらっていいんだけどね。私は他の店で食べるし。

スーパーマーケットの精肉コーナーの前で息を吸うと吐いてしまいそうな時まであった。

ついこの間まで生きていた肉達。

ソーセージ屋さんの前では可愛い子豚のぬいぐるみが「美味しいよ!」と書いてあるポップまで持たされていて、この世の人間は皆サイコパスなのではないかとすら思った。

せめて動物たちには苦しまないように最期を迎えさせてあげてほしいが、そんな事を言うのも許されないのかもしれない。それこそ完全なる、身勝手な私のエゴなのだろう。

そして周りの空気を読まずに己を突き通せるほどの、ベジタリアンになる覚悟は私には無いのだ。

だから、私はベジタリアンとすら名乗れないし、名乗るつもりもない。フレキシタリアン、と言った方が良いのかもしれない。


肉を再び食べれるようになったきっかけは単純で、『ゴールデンカムイ』を読破してからだ。

カムイという概念を通して命をいただくアイヌ民族の姿をきっかけに自分の中の矛盾を受け入れ、納得する事ができたのか

それまで肉の塊を見ては催していた吐き気がピタリと止まったのだ。

今は、普通に肉を食べることが出来ている。
肉を、食べてしまっている。と言った方がいいのだろうか。

肉食をやめていた時は、肉を食べている人の事を心のどこかで軽蔑していた。

今では、自分に対して軽蔑している。

でももう、私には何も分からない。「スイッチ」を切ってしまっているからだ。

スイッチを切った途端に私は生きやすくなったが、同時に大切な何かを失ったような気もする。これが人間の「普通」なのだろうか。

しかし環境へのメリットなども考えて、なるべく一人で食事をする際はノンミートな食事を心がけている。

そもそも私は元々固い肉が苦手なので、肉を断つことはさほど苦ではないのだ。

何なら本当は、何も口にしたくない。

もしも何も食べないで生きていくことが出来るなら…

植物のように、水と日光で生きていけるのなら、どんなに良いだろうか。

そんな事を考えてばかりいるので、私の体重は一向に増えないし、虚弱体質も治らない。

でも、私にも食欲はあるし、この世の美味しいものは全て食べたいと思う時すらある。

悲しいけれど、この先どうなるか分からないけれど、私は私の食べたもので出来ている。

そもそもこれは踏み込んではいけない話なのかもしれない。

ただ、私は永遠とこんな事を考えてしまうのだ。その結果大した決断ができるわけでもないのに。

そしてこれは、食事に限った話ではない。

私はきっと今この瞬間も、誰かを傷つけてしまっていると思う。

それはたとえ、意図的でなかったとしても。

私が今日起きた嬉しいことを話したら、今日が最悪な日だった人は不快になるかもしれない。

私の幸せを願ってくれる人ならば、心から「よかったね」と思ってくれるだろうか?善良な人ならば不快にならないか?

そうかもしれない。そうかもしれないが、それでも傷付く人は傷付くのだ。それがどんな些細なことであろうと。

それは相手の問題か?私の問題なのか?

私だって、自分が限界状態の時に人の幸せな話を喜んで聞けないかもしれない。

どんなに目の前の人が平気な顔をしていても、笑っていても

心の奥では泣いているかもしれない。怒っているかもしれない。

心を病んでしまって、人の幸せな話をあまり聞きたくない、と吐露してくれた友人を私は何人も見てきた。

その中には、もうこの世にはいない友人もいる。

少しでも相手が傷付く可能性があるならば、私は何も話したくないし、話せない。

くだらない話ばかりして、ヘラヘラしていたい。

かといって自虐ネタに走るのも良くないのだろう。

でも、そんな風にドギマギしながら会話を試みるのにも疲れてしまうことがある。

そんな時に毒舌YouTuberの動画を見るとひどくスッキリして癒される。私はだいぶ救われている。「ナナオは立派なユーチューバー」に。

『この世は弱肉強食だから。野蛮な人間が勝つんだよ。皆、裏ではやることやってるけど黙ってるだけだよ。嘘ばかりだよ。』

…そんな事はないと誰かに言ってほしいし、それを証明したい。

そう思っている私が誰よりも野蛮な人間なのかもしれない。

だって今の私は、誰かに「お前が生きていると傷付いて仕方がないから死んでくれ」と言われても死ねないからだ。

強くなりたい。誰かを傷付けずに生きれるほど、強い人に。

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