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介護essay#3 老母の庭

梅雨入り前。誰も住まなくなった実家の玄関先に、白いアジサイが咲き出しました。この家に一人で暮らしていた母は春先に倒れ、入院中です。病院へ届ける細々した品を袋づめして家を出ると、さっきの白アジサイが再び目に止まります。丸んまるの球型ではなく楕円形の、茎と花弁の間に遊びがある風情に、ふと心がなごみます。

「ちょっと可愛らしいでしょう」ー よく母はそう言っては、実家の庭に咲く花を切って、おみやげに持たせてくれました。一輪切って病室に届けたら、喜ぶだろうな。頭をよぎりますが、病室の衛生管理は厳しく生花の持ち込みは禁じられています。

それにしても。まだ六月も始まらないのに、庭の草木はしげり、雑草が生え放題です。樹木もぐんぐん伸びて、隣の家に届く勢いです。近いうちに庭の剪定もしなければと、心の中でいそがしく算段を立てながら、でもそれも焼け石に水にすぎず、この庭はもう荒れていくばかりだとあらためて思います。

母が庭に戻ることはもうありません。庭は、手入れをしてくれる主(あるじ)をなくしてしまいました。小さな頃に読んだイギリスの児童文学『秘密の花園』のように、このまま時の流れに任せて荒れ果てていく庭を見たい気もします。でも現代日本の住宅地でそれは無理なこと。

庭のある家に住みたいと思いながら、私自身はずっとマンション暮らしでした。防音と空調の整ったリビングは快適ですが、自然な風のとおる木造の家に移り住みたい気持ちに時どき無性にかられます。

庭先に花や果樹を植え、子どもの頃のように四季の移り変わりを身体で感じながら生活ができたらどんなに幸せだろう。でもきっと、私やほかの誰かが母の庭を受け継いだとしても、それは「母の」庭を残すことにはならないのでしょう。

庭の手入れは一年365日少しずつ休みなく、そうしているうちに「その人」が庭にも宿るように感じます。他の人間の手が入ればあっという間に庭は変質し、違う匂い、違う空気を発するようになるでしょう。

母の庭は「母のもの」で終わらせたい、スッとそう思いました。母が植えた草木と樹木は時間のかぎり生い茂り、やがて伐採されます。

最後には庭のある土地そのものが売地になりすべてが無くなるまで、それまで見届けなければ。背筋をのばして見送らなければ。

今はまだ、母の庭にはたくさんの花が咲いて、だからまだ母と話す時間も残されている。それが母と私の介護の日々になります。

今度母を見舞うときは白アジサイが咲いた話をしようと思いながら、花の咲く誰もいない家を後にしました。

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