再び書き始めた理由

私はほとんどの興味が私の内側へ向いている。

そのことを損な性格だと思ってきた。

だって、美しい風景を見ても、感動する作品に触れても、人から感謝されても心に波風が立たないの、やっぱり損だと思うの。

正確に言うと、心に波風自体は立っている。

けれども、常にその感じているものの先に自分の存在を見出してしまって、スンと凪いでしまうのだ。

私は、風景や作品や人の存在をスナック菓子のように食べている。
ただ、小腹を満たすだけのものでしかない。

そんな人間に、言葉を紡ぐ資格があるのだろうかと思う。

小さい頃から自己表現をすることには殊更の興味があった。
自分は消費する側ではなく生産する側なのだ、という強烈な自意識があった。

それゆえに、小説は読むより早く書き始め、漫画も読むより早く描き始めた。

当然、未熟なものが出来上がるし、それを周りからも指摘される。

とりわけ私の家系には創作をおこなう血が流れている。
小さい頃は親から「よくできたねぇ」と褒められたものの、大人になってからは「もっと洗練させなさい」と言われることが増えた。

私は、突然狂ったようにあらゆる作品に触れて研究するようになった。

今となっては文章を書く仕事もしているし、以前よりは幾分か洗練されたものが書けているとは思う。

それでも作家の先生方のインタビューを見るたびに、彼らにはまず土台に生きるという状態があり、食べること寝ること愛しあうことがあり、その上に書くという行為があることを再認識し、その健全な人間性を羨ましく感じてしまう。

私は文字通り、書くために生きている。

字面だけで言うなら、むしろこちらの方が職人的というか、ストイックでかっこいいと感じる方も多いかもしれないが、そのイメージと実態は著しく乖離している。

私は書くために、自死することも他殺することもできてしまう。
もちろんそういった法的、倫理的に問題になるようなことだけでないよ。
でも、これまでも書くために婚約者と別れたり、親友と絶交したり、職を失ったり、病気になったり、たくさんの前科がある。

毎日、毎分、毎秒、私は書くことを優先するために人生を逸脱しないように気をつけている。

そんな人間が書くことは、それ自体が罪なのではないかと思っている節がある。

それゆえにいつもどこかよそゆきの格好をして、おほほ、わたくしはきちんと人生を送っているのですわよ、などと嘯いてちょろっと駄文を載せるなどする程度にとどめていた。

価値を生まなければならない、それも人に愛されるような価値を。
そう考えていた。

けれども、もうやめることにした。

きっかけはひょんなことで、谷川俊太郎さんの詩集をフライト中に読んでいたときだった。

谷川さんの産んだ子たちが宇宙中から集まって、私の前で自由に歌ったり踊ったりしているの。

唐突に堰を切ったように涙が溢れだした。

書くために自分の人生を実験に使い、自分の外側にあるものを冷徹に利用する私自身の性質は何も変わっていない。

けれども、自分自身に対する恐れや書くことに対する恐れは、谷川氏の子供らと手をとって踊っているうちに軽減されたように感じる。

だから私は、再び書くことにした。

エッセイも詩も小説も、もちろんそれ以外であっても、ありとあらゆる書くという行為から逃げずに取り組む。

ここまでの一連の内容は、その決意表明。


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